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遼・金王朝 千年の時をこえて 第1回

 

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907~1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115~1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に北京は初めて国都となったのである。新連載では、私が長い時間をかけて探し求めた遼・金遺跡にまつわるエピソードを、写真とともにお届けする。

遺跡との出遇い

私が、遼・金王朝に関心を持つようになったのは、1980年代に北京周辺の寺院を調査、研究する間に遼・金に係わる様々な事物に出遇ったからである。この両王朝は北京に都を置き、初めて北京に国都の地位を与えたのである。当時、私は遼・金についての知識が乏しかったので、意識的に遼・金に関係のある場所を北京郊外や山西省、河北省、遼寧省にまで足を伸ばして探し歩いた。さらには、内蒙古東部の契丹の故地や女真発祥の地である黒竜江省まで出かけて行った。

天寧寺は現在、尼寺となっている。現在、一般に公開中(天寧寺八角塔)
私と遼代の文物の最初の出遇いは25年前に遡る。そのきっかけは、北京の西二環路の立体交差の上にそびえて見える天寧寺の塔だった。これは城内に現存する最古の建築である。12世紀初頭に建てられたもので、契丹の第二の都であった北京の北西端に際立った存在感を示している。正八角形のこの塔は13層の庇を有し、その基層部三層には蓮の花の彫刻が、また、上部全体には美しい薄浮彫が施されている。私は八角塔の持つ高い芸術性に魅了され、北京の歴史に早い時代からこのような痕跡を残した契丹人とはどんな人々かに強い興味を覚えた。

後になって、八角塔は遼の時代に初めて出来たものであり、仏教建築に大きく貢献したことを知った。高さ58メートルに及ぶ塔は帝国の威容を誇示する偉大な建築物であったのであろう。

1985年当時、寺の境内は工場として使われていたが、私は塔の全景をカメラに収めるためには人に見られぬように石炭の山に這い登る必要があった。塔壁に刻まれた装飾の中に深い信仰心が表現されており、特に雨露にさらされて色褪せた菩薩像は、両手を胸の前で合わせて祈りを捧げる姿で、人を魅了する美しさを保っていた。神像や龍もそれぞれ個性的で、石獅子が顔を突き出しているのも本尊をしっかりと守っていると言わんばかりの風情であった。

最近では、塔の周辺は公園になっており、寺の中には尼僧たちが住んでいる。この孤高の塔は時の流れに抵抗するかのように、遼時代から文化の中心であった北京の歴史を今に伝えている。

金後期以降のもっとも著名な文化遺産は盧溝橋(マルコポーロ・ブリッジ)であろう。1983年に私が初めてこの橋を見た時は、まだ車でその古い石畳の上を通ることが出来た。多くの人はマルコポーロと結びつけて、この橋からモンゴルを連想しがちであるが、実はその卓越した建築技術は女真族のものなのである。堅固な美しいアーチは11を数え、800年経った今も永定河の川床にその勇姿を残している。私はこの橋に来るたびに、その技巧の力強さと石の欄干に刻まれたそれぞれ特徴を持った愛嬌たっぷりの獅子たちに心を奪われる。

 堅固な美しいアーチ(盧溝橋)  深い轍の跡はこの橋の長い歴史を物語っている(盧溝橋)

金の中都への入口に位置するこの精巧に造られた橋は、王朝の力を窺い知る手懸りを与えてくれる。ここは金帝国の南部との交通の要衝でもあった。

欄干の獅子たちはそれぞれ異なる表情をみせる(盧溝橋)
金の皇帝が橋に懸かる月の美しさを愛でたというエピソードがあり、「北京八景」の一つに数えられている。月明かりの夜、石の獅子の影が、深い轍の跡を残す古い石畳に映える様は、幾世紀も同じような光景を人々に見せて来たのであろう。今では、この場所は中秋の名月を観る人で賑わう観光地になっている。

天寧寺の塔と盧溝橋という遼・金時代の二つの文化遺産は、契丹と女真の人々について、もっと研究したいと私の心をかきたてた。この民族は一体どういう背景を持っているのか、何が彼等をして王朝を打ち建てるという偉業をなさしめたのか、如何にして彼等は自らの伝統をこのような傑出した文化遺産として残し得たのか。

私の探求の旅はここから始まる。(阿南・ヴァージニア・史代=文・写真)

 

人民中国インターネット版 2009年2月27日

 

 

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