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最盛期、一万の馬が通った麗江

 

城壁のない古城

 

 麗江古城からわずか15キロのところに、玉竜雪山がある。この山はユーラシア大陸において、緯度が赤道にもっとも近い海洋性氷河のある雪山である。13の峰からなり、標高はいずれも5000メートル以上。最高峰の「扇子トウ」は5596メートルに及び、雲南省で2番目に高い峰で、現在にいたるまで人間に征服されていない山である。

 

 玉竜雪山は、ナシ族に「神聖な山」と見なされている。言い伝えによると、ナシ族の守護神である「三朶」が玉竜雪山の化身で、戦争に長けた勇ましい英雄だそうだ。ナシ族の人々は、毎年旧暦の28になると「三朶祭」を行い、玉竜雪山と三朶への敬意を表する。

 

 雪山の麓にある麗江古城は、南宋(11271279年)の末年に建造が始まり、800年あまりの歴史を持つ。ナシ族の古語では、麗江を金沙江(長江上流域)の屈曲部という意味の「依古堆」と称し、後に穀物倉庫と集落がある市街という意味の「鞏本之」と称した。1929年以降、古城が硯の形をしているとして「大硯鎮」と改名された。城壁のない珍しい古城である。

 

 言い伝えによると、麗江の「木」姓の土司(元・明・清の時代、世襲の官職を与えられた西南地区の少数民族の首長)が、城壁で古城を囲むことを嫌ったという。「木」という文字に「囗」を加えれば「困」になってしまい、縁起がよくないからだ。そのため、古城にはずっと城壁がないのである。

 

 玉竜雪山のふもとを流れる金沙江のほとりにある麗江古城は、青山にぐるりと囲まれている。北に象山と金虹山、西に獅子山があり、東南は広大な平地である。夏は暑すぎず、冬も寒すぎない。城内の建物は地形にあわせて建てられ、重なり合うような民居が秩序立って分布している。

 

 

 城内は曲がりくねった道が四方八方に通じているが、規則性はなく、ほとんどが水の流れに沿って伸びている。どこから古城に入っても、中心にある「四方街」に通じる。商店が囲むようにして四角い広場となった場所は、「知府の印鑑」の形をまねて造られたもので、土司の権力が四方を鎮めるということを意味する。

 

 数百年来、四方街は一貫して麗江古城および雲南西北部の交易の中心地であった。四川・チベットルートと雲南・チベットルートのキャラバンが往来する際には必ずここを通る。そのため古城には、キャラバンのために敷物やチベット式ブーツ、あぶみ、蹄鉄などを加工する専門店が出現した。とりわけここで作られた銀や銅の器といった生活用品は、チベットで販売する人気商品となった。チベットから運んできた皮、細羊毛、山地の産物、草薬とインド、ネパールから輸入した布や各種舶来品は、市場で人気を呼んだ。

 

 抗日戦争の時期には、中国の主な輸出入ルートが日本軍によって断ち切られた。したがって昆明から麗江、チベットを経てインドまでのルートが、当時の重要な貿易ルートおよび戦争物資の輸送ルートとなった。そこで、内陸の商人たちが麗江に集まってきて商売を始め、城内には最盛期に1200軒もの商店があった。現地の商人が省外および国外で設立した貿易会社も、百社以上に達した。現在も、各地、各民族の貿易商が絶えず古城に店を開き商売をしにやってくる。観光客の訪れも頻繁で、古城の繁栄風景は今に至るまで廃れてはいない。

 

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