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松江に古を尋ねて 唐宋元明清」が勢ぞろい

 

高原=文・イラスト 馮進=写真

松江は上海西南部に位置し、かつては華亭と呼ばれた。唐の天宝年間(742~756年)に華亭県が置かれ、上海が開港する前まで上海地区の政治、経済、文化の中心地であり続けた。まさに「上海の根」と言うのにふさわしい土地である。歴史が長いため、ここには多くの名所旧跡が多く残り、「唐宋元明清と、古今が見られる場所」と言われる。周辺部も含め上海で最も多くの文化財や古跡が残り、歴史と文化の町としてよく知られている。

夕闇のなかの石経幢

唐の陀羅尼経石幢は、上海地区に現存する最古の地上建築物
松江区中山小学校の敷地内にある唐の{だらにきょうせきどう}陀羅尼経石幢は、上海地区全体でも現存する最も古い地上の建築物である。1978年に著名な考古学者の夏鼐がこれを見て、中国の石経幢の中でも最も素晴らしい芸術的逸品であると感嘆したという。中国に現存する経幢は数多く、建立されたのは松江経幢より遅いか、ほぼ同時期である。しかし、いずれも規模、浮き彫りの芸術的水準において松江経幢とは比べ物にならない。

松江経幢は唐の大中13年(859年)に建立された。高さ9.3メートル、21の石彫からできている。蔣復と沈直爾という二人の人物が、亡き母と早世した弟を済度し、つまり経を読み死者を苦界から救うため、病魔に取りつかれた息子の全快を祈るために建立した。

長い間にぎやかな街中に放置されていたため、経幢は風雨にさらされひどく風化している。特に経幢の下部、欄干のように周りを囲っている部分は8分の1程度しか残っておらず、上部に施された盤龍、蹲獅、菩薩像、天王像などの彫刻も、おおかたは本来の姿がぼやけてしまっている。経幢の最上部には「郡主礼仏」の円柱の浮き彫りがあり、経幢の最高の芸術水準を示していたという。郡主が二人の女宮の助けのもと、仏を拝む様子が描かれており、場面が壮大で人物が多く、表情も豊かだったそうだが、もはや人々の想像力で補うしかない状態だ。

わたしたちが松江経幢を参拝したときは、すでに夕方になっていた。運動場に静かにたたずむ経幢は、ゆっくりとたそがれの闇の中にその姿を溶け込ませていくようだった。その傍らに立つ小学校の校舎には、まぶしいほどの明かりがともり、たくさんの子どもたちが羽けりをするなど、楽しそうに遊んでいる。過ぎ去っていく歳月に、わたしは思わずため息をついた。この経幢は、いく世代の子どもたちを見てきたことだろう。子どもたちはさっそうとした若者に成長し、年老いて死んでいく。そして、それがいく世代も繰り返される……。経幢は千年を経ても滅びることはないが、作り上げた人の命は花火のように短い。この古い経幢は、往時の主人の祈りを今でも覚えているだろうか。

方塔と照壁が語るもの

松江方塔はその秀麗さで世に知られる。方塔に登って遠くを眺めやると、黄浦江がまるで一本の帯のように東に向かって流れ行くのをはじめ、周囲百里の古華亭の景色が一望のもとに見渡せる。

松江区方塔園内にある明代の彫刻青磚の照壁

方塔園天后宮にまつられている媽祖像

明代の彫刻青磚の照壁の細部

松江方塔園内にある方塔は、北宋の熙寧から元祐年間(1068~1094年)の建立で、元の名は興聖教寺塔という。塔の本体は磚木構造で、高さ42.5メートル、9層で、正方形をしているため方塔と呼ばれる。北宋時代から今日に至るまで、いくたびかの補修を経ているが、そのクスノキの斗栱のうち62%は宋代の部材がそのまま保存されている。これは現存する宋代古建築のなかでも、極めて珍しいことである。

方塔で最も人目を引くのが、美しい塔の形と広く風変わりなひさしだ。言い伝えによると、この造形は職人が自分の娘の優雅な身振り、踊るときにひるがえる裾から着想を得たものだという。ひさしの四隅には銅鈴がかけられており、娘の耳飾りのようで、風に吹かれて鳴る音が心地よく耳に響く。

方塔のほかにも、方塔園内には少なからぬ歴史的旧跡が残されている。例えば、宋代の石橋、明代の彫刻を施した青磚の照壁(表門の外側の真向かいに設ける壁)、清代の天后宮などであり、この小さな場所に歴史が凝縮されているようだ。そのなかでも、最も目立つのはやはり方塔の前の照壁である。方塔と照壁は50メートルと離れておらず、写真を撮るとよく一緒に写り込むため一組の建築だと誤解される。しかし、一つは仏教建築であり、もう一つは道教建築、実は両者にはなんの関係もない。

この、現存するものとしては国内最大の彫刻青磚の照壁は、創建された明の洪武3年(1370年)当時は松江府城隍廟の照壁だった。その後、城隍廟は戦火に焼かれ、この照壁だけが残ったのだった。照壁は幅15メートル、高さ4.75メートルで、70の四角い青磚で形作られている。中央には一匹の麒麟に似た神獣が彫刻されており、犭貪(ドン)と呼ばれる。伝説ではこの動物は極めて貪婪で、この世の富を独占するという。描かれているのは、4本の足でそれぞれ元宝(馬蹄銀)、サンゴ、如意(仏具)、サイの角という4つの宝物を踏みつけている姿である。傍らには神樹があって、その葉は元宝や銅銭に変わり、羽が生えて犭貪の口に向かって飛んで行っている。犭貪は、この世の栄華を極めつくしてもなお満足せず、太陽を食べに行こうとして東海に落ち溺れ死んだという。犭貪の彫刻はつまり、人々にあくことなくむさぼるなかれ、さもなくば自ら滅亡の道をたどるであろうと戒めているのである。明清の時代、松江知府(府知事)や知県(県知事)は新たに任官すると、必ずこの照壁を参観に訪れ、犭貪の物語を戒めに清廉で節義を持ち公のために尽くすことを誓ったという。

 

人民中国インターネット版 2010年9月10日

 

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