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宝山区・聞道園
工業区に「古建築博物館」

 

高原=文・イラスト 写真=馮進

上海の宝山区といえば、大多数の人の第一印象は、おそらく宝山製鉄所だろう。確かに、宝山区の住民の多くが宝山製鉄所に勤める職員・労働者とその家族であり、街全体が企業城下町であることは、宝山区に一歩足を踏み入れれば誰にでも分かる。ところが、最近、その宝山に工業化とは趣を異にする景観が出現したのだ。まだ全体は完成していないものの、ご当地でも評判は上々、上海市の新しい観光スポットになっている。上海万博開催にあたっては、会場外の13のテーマ展示区の一つにも指定された。それが今回紹介する聞道園である。

工業都市の江南の名園

聞道園でまず目に入るのは清の道光年間(1820~1850年)に皇帝の命によって建てられた「牌坊」である。忠孝の士、貞節な婦人を顕彰するために建てる鳥居形で屋根のある装飾門であるが、「貞寿之門」の扁額が掲げられている。この牌坊をくぐって園内に入ると古式ゆかしい徽州建築様式の邸宅が見えてくる。

見渡すと建物のかたわらには池が広がっており、折からの風にさざ波が立って、とても美しい。池には清の咸豊年間(1851~1861年)に造られた石の橋「永済橋」が架けられている。

この邸宅はしっくい塗りの白壁に黒瓦、「馬頭牆(階段状の切妻壁)」に反り上がった軒と、典型的な徽州の建築様式なのだが、真っ白な壁にはアルミサッシの窓がうがたれているなど、ちょっとちぐはぐで、今はやりの古建築風建物に過ぎないのではないかと思ってしまった。ところが中に入ってみて納得がいった。この邸宅は外壁は新しいものだが、中は梁といい、柱といい、構造はすべて木製で、欄干や扉などの木彫、下壁のレンガに施された彫刻、石造りの部分の彫刻などはすべて清代当時のもので、取り壊される寸前の徽州古民家を解体して、ここ上海に運び込んだものだったのだ。古建築の専門家や熟練の大工・左官が解体されて運び込まれた部材を心を込めて組み立てなおし、復元された正真正銘の徽州古建築なのである。

園内にはこの邸宅のほかにすでに復元が終わって観光客に開放されている建物が数棟ある。例えば、進士第、状元楼、楠木庁などだ。原形をとどめたままで改装を施し、レストラン、ホテル、会議場、娯楽施設などとして観光客の利用に供されている。

驚いたのは、園内にある巨大な倉庫の中で数十棟の古建築が復元を待っていたことだ。解体・搬入された部材が一山、一山積み上げられていて、梁や柱には組み番号が記されている。組み立てられれば、取り壊される運命にあった古建築が再び日の目を見ることになるのだ。聞道園はまだ未完成だが、すでに出来上がった部分を見るだけでもその素晴らしさに誰もが感嘆することだろう。2、3年後に、さらに数十棟の建物が並び、園内の築山や池がいっそう整えば、工業都市・宝山に江南の名園が誕生することになるのである。

徽州での奇遇が契機に

楠木庁の梁や柱には貴重なクスノキが用いられている
解体して遠く上海まで運び、組み立てなおすのには大変な手間ひまと経費がかかる。なぜ徽州の現地で補修して保護できないのだろう。筆者のそんな素朴な疑問を園主の王衛さんにぶつけてみた。

王さんは、「そのことでしたら、2002年にさかのぼってお話しなければなりませんね」と切り出し、8年前の休寧県への旅の話をしてくれた。王さんは親しい友人と連れ立って安徽の伝統建築民家が多く残る休寧県に旅したのだが、倒壊しかかっている建物が売りに出されており、それを台湾の商人が20万元で買おうとしている場面に遭遇したのだった。王さんは、なんでこんな壊れかかった民家を大金をはたいてまで買う人がいるのか、最初は興味本位で関心をもったのだったが、建物の中に入ってびっくり。内部には精巧な木彫が施されており、もとは由緒ある屋敷だったことを知ったのだった。そこで、台湾の商人と掛け合い、その建物を自分が買うことに。それが、聞道園の最初の古建築である進士第である。

進士第の再現にはもとの部材がかなう限り用いられている。基盤をしっかりと突き固め、腐食・崩壊した部分は同じ用材でそっくり換え、さらにすべての材木に防腐剤をほどこした。基盤を堅固にし、腐食した部材は取り替え、防腐措置を施すという方法は、進士第に限らず、聞道園内のすべての古建築の復元時に必ず行われている。それは、新しい土地で、古建築が再び倒壊したり腐食したりしないための保障にほかならない。

心痛む古建築の消失

進士第を復元したことがきっかけで、王さんはその後、暇さえあれば徽州に出向いて古建築を訪ねるようになった。徽州にはまだ多くの素晴らしい古建築が残っているが、多くは住む人もなく、あるいは豚の飼育場や養蚕場、飼い葉置き場などになっているか、取り壊されてしまったり、すでに倒壊したものも少なくない。王さんの心は痛むのだった。最初の「買い物」は好奇心からだったが、その後は本心から、そして真心をこめて売買の折衝に当たるようになった。それは古建築を守りたいという王さんの心からの願いからきているのである。500年の歴史を持つ明代の古建築が外壁は崩れ、内部も満足には住めないほど痛んでいるのを目にして、王さんはほんとうに心が痛んだという。自分がお金を出すから、ぜひ修復してほしいと家主に申し出ると、その家の老婆は、その好意を受けようとはしない。「ありがとうございます。でも、わたしどもには、せっかく修理してもらっても、この先ずっと守っていくことができそうにもないのです。あんたが買い取って、どこかできちんと保護していだだけるなら、そのほうがずっといいのですよ」と応えるのだった。

復元された邸宅の内部。木構造の主要部分はそっくり元のままだ

王さんは感慨深そうに語った。「徽州で倒壊や消失の運命にある古建築は非常に多い。私が買い取ったものは、その万分の一にも当たりません。しかもその中には現地の政府が保護の対象にしているものは一つもないのです。もし解体して運び出さなければ、十数年後20年後にはもう私たちは古建築を目にすることができなくなってしまうでしょう」

こうして、2002年からこれまでに王さんは50余の邸宅と三基の牌坊、6棟のあずまや、二つの古橋を買い取ったが、邸宅のほとんどは倒壊寸前か、一部が崩れてしまった建物である。

上海に運び込んだあとは、どう復元するか、その技術的な処置が何よりも大事になる。そこで、王さんは多くの芸術家や技術者、そして熟練した技を持つ大工・左官に復元をお願いした。著名な古建築専門家や上海の名門、同済大学や上海大学の建築学部教授、そして木彫の里として有名な浙江省の東陽県や衢州市からは腕利きの職人を呼び、検討と実際の復元に当たってもらった。

こうしたプロセスにはたいへんなお金がかかる。幸いなことに、最近、上海市政府がこの建て替え・復元プロジェクトを支援することになり、少なからぬ資金と人力の提供を約束してくれたという。あと2、3年もすれば、聞道園の全貌が私たちの前に姿を現すことになるのである。

 

人民中国インターネット版 2010年10月

 

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