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金沙遺跡 古代人の宇宙観示す黄金製の「太陽神鳥」

 

■石虎の尾部に工夫の跡  

ここで、最も代表的な青銅製立人像、金製冠帯、石虎を取り上げて、金沙文化と三星堆文化の異同と両者の伝承関係を説明したい。  金沙から出土した青銅製立人像は、高さがわずか19.6㌢で、目を大きく見開き、口は織り機の杼のような舟形で、うずまき形の冠を被っている姿だ。三星堆から出土した高さが262㌢に及ぶ大きな青銅製の大きな立人像とは、もちろん同日には論じられない。しかし、この二つの立像が身に付けている長衣、姿勢、特に両手を胸の高さに上げて何かを握っている格好はそっくりだ。

玉戈

この二つの立像の高さの違いについて、考古学専門家は金沙遺跡の立像がまだ出土していない別の青銅製器具の一部ではないかと推測している。現在、金沙遺跡の発掘済みの部分は全体のわずか10%にしか過ぎないからだ。

金沙から出土した金製冠帯は、円環形で、被りやすくするため、上部の直径が下部より大きくなっている。金製冠帯と三星堆から出土した金杖は、古蜀の王が最高の王権と神権を握っていたことを象徴している。しかし、金杖から金製冠帯に代わったのは、身体の中で最も尊い頭に被ることによって、権力と地位の崇高さと神聖さをより明確に示したかったからだろう。

金製冠帯には四組の図案が彫られている。各組の図案は一匹の魚、一羽の鳥、一本の矢、ひとつの円からなっていて、金杖の図案とほぼ同じだ。これらの図案は金沙と三星堆の最高統治者が属していた氏族の同一性と連続性を示しているという見方もある。

金沙と三星堆の文化を創造した古蜀人は、虎をトーテムとして崇拝していた川西(四川省西部)高原に住む羌氐民族の後裔だ。このため、金沙と三星堆から虎の図形が多数出土しているのだろう。金沙から出土した十数点の石虎の中に、蛇紋岩に変化した橄欖岩からつくられたものがある。黒石にある白い紋を巧妙に利用して虎の斑紋を表現した非常に珍しいものだ。よく見かける虎の図形は頭が大きく、しっぽが長く、口を大きく開き、目を怒らせ、耳を立てて前進する姿だが、じっとしゃがみ、頭を上げ、口を大きく開けたこの石虎の姿は、かえって、人々に獰猛でとても威力があるイメージを与えている。

象牙人形紋玉璋

不思議なことに、この石虎には長い尾がなく、臀部に丸い穴があり、見る人の頭をひねらせる。この石虎が出土した後、他のところで人が跪いた姿の石像、石虎、石蛇、石璧といくつかの湾曲した石器が同じ場所に埋まっていたのが発見された。湾曲した石器の一端は内側に曲がり、もう一端に一つの穴があり、その大きさは石虎の臀部の穴とぴったり合う。そのひとつの穴の中から、木屑やにかわのようなものが残っていた。これによって、専門家はこれが石虎の尾だ断定した。ほぞ木の両端に粘着剤を塗り、それぞれ尾の末端と臀部の穴に挿すと、尾は固定される。そうすることによって、つくる時に石虎の長い尾を折る心配がなくなったのだろう。

■急流を利用して動力に

金沙から出土した多くの玉器の中で、人目を引いたものがいくつかある。「璋」は古人が天を祭り、太陽を拝み、豊作を祈る時に使われた礼器で、権力と地位の象徴だった。「双獣首闌玉璋」は金沙から出土した200点に及ぶ玉璋の一つだ。玉柄と玉身が接する部分の両側に、左右対称に一対のしゃがんだ獣が立体的に彫られ、向き合った形で、生き生きと表現され、精巧につくられている。この玉璋は極めて高度の玉器製造技術を示している。

「璧」も古人が天を祭る時に用いられた礼器だ。金沙から出土した「有領玉牙璧」は非常に珍しい。これは中央に丸い穴が開けられ、その両面に襟に似た突起の「領」が付いているほか、玉の外周には四つの穴が開けられ、それぞれ五本の歯状突起が付いている。今のところ、「領」と「歯」がどんな役割を果たしていたのか分からない。

金沙の玉職人の高い製造技術には感心させられる。もう一つの有領玉璧は、円環の両面にごく細い同心円の紋様が七本刻まれている。両面の紋様は対称、等間隔、溝の深さも同じで、流れるような線で刻まれている。まるで今のLPレコードのようだ。

こんな精密な紋様はどのように彫られたのか。専門家はこれは「砣具」(丸鋸)という半機械式の装置によって刻まれたと考えている。この装置は両足でペダルを踏んで円盤を回す仕組みだ。しかし、均等に力を加えないと、均等な紋様を刻むことができないため、速く、しかも等速で円盤を回さなければならない。このために、専門家は、3000年前の金沙の玉職人が流れの急な川を利用して水車を回し、皮のベルトでその動力を伝え、丸鋸を高速回転させたと推測している。

「琮」は、古代人が地を祭る時に使った礼器だ。外部が方形で中心部に丸い穴がある琮は、「天円地方」という中国古代の宇宙観が反映されている。また琮の中央に開けた丸い穴には「天地を貫通する」という意味が含まれている。

金沙から出土した27点の玉琮のうち、最も貴重なのが「十節玉琮」というものだ。この玉琮は、10層に分かれ、各層の角を中軸として、各面に簡素化した人の顔の紋様が刻まれ、合計40の紋様が付いている。また各面の上部に、それぞれ長い冠をかぶり、両手を胸の高さに上げて、長い袖をひらひらさせ、両足を開いたダンサーの姿が刻まれている。これは祭祀の一場面かもしれない。

この玉琮は造型や紋様、彫刻工芸から見ると、金沙から出土した他の玉器と大きく違い、長江中下流にある良渚遺跡から出土した玉琮と完全に一致している。これにより、この玉琮が良渚から金沙に伝わったという見方もある。実は、良渚文化が金沙文化より千年早く出現して、また、良渚が金沙より千㌔以上離れているため、この玉琮がいかに金沙に伝わったのかまだ分からない謎だ。

王院長は「成都平原は天下の宝物を盛った鉢のようだ。各民族の人々はここに引きつけられ、それぞれ自らの民族文化を携えてやって来た」と、解説してくれた。包容力がある古代蜀人はさまざまな方式で他の文化を吸収した。例えば、良渚玉琮を受け入れたように外来文化を取り込んだ。各地の人材を招き、地元の人に技術を伝授させる。また、地元の職人に中原地域の青銅器を模倣させた。このようにして、古蜀文化が各地域での外来文化と衝突、融合して、太陽神鳥、金製冠帯、有領玉牙璧をはじめとする輝かしい成果を創り出した。

古代蜀人も長江、西南シルクロード、茶馬古道を通じて、古蜀文明を四方八方へ伝播させた。そのおかげで、インダスや大夏などで、古蜀刺繍を見ることができ、朝鮮半島で古蜀錦を見られ、また、長沙馬王堆から古蜀産の漆器、ベトナムから古蜀の特色を持つ「玉牙璋」などが出土しているのだ。

 

人民中国インターネット版 2011年10月

 

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