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エドガー・スノー・シンポジウム開催

 延安訪問80周年 再注目される業績

 

王浩=文・写真

 

中国人民は、米国の友人エドガー・スノーを永遠に忘れない。

長征勝利80周年であり、また米国人記者エドガー・スノーが延安を訪れ毛沢東にインタビューを行ってから80年でもある今年、第17回スノー・シンポジウムが北京で開催された。10月12日、会場となる北京大学には、中国国際友人研究会、北京市対外友好協会、エドガー・スノー記念基金、北京大学などやスノーの子孫や友人など100人余りが集い、一人の記者として真理を堅持し、人類の平等・自由の精神を追い求め、中米国交促進に尽力した彼の事績をしのんだ。

1936年、保安(現在の延安市)で毛沢東に会ったスノー(左)(写真提供・中国国際友人研究会)

中国の真の姿を世界に

スノーは、米国ミズーリ大学で学んだ後、1928年に23歳で上海にやって来た。当時の中国は軍閥が入り乱れ、帝国主義勢力の半植民地的状況にあり、民衆はあえいでいた。スノーは当初中国に6週間滞在する予定だったが、結局ほぼ中国全土に足跡を残すことになった。彼は、被植民者としての視点から中国を観察した。29年には中国で大飢饉が発生し、一面の餓死者という光景が彼にショックを与えた。中国の境遇を目にして、人は生まれながらにして平等だと固く信じる彼は、次第に植民やファシズムに反対する立場を固めていった。彼は、中国の権力者による人民を搾取、抑圧する政策に怒りを覚える一方で、外国列強の冷淡さ、横暴さに不満を表した。

この時期、スノーは記者として活動する以外に、講師として燕京大学(現在の北京大学)でジャーナリズムを教え、多くの進歩的な若者と知り合った。彼はよく若者を自宅に招いて時局を語り合い、中国の活路を探った。

後に、魯迅らと知り合い、宋慶齢の紹介によって、36年の夏に当時の赤軍の所在地であった陝西省延安に取材に赴いたのだった。彼に付き添ったのは、新中国成立後外交部長(日本の外相に相当)を担当した黄華だった。当時は、国民党政府の独裁政治の下、中国共産党や赤軍のニュースはシャットアウトされていた。黄華夫人の何理良女史によれば、スノーは一人のジャーナリストとして事実と真相に対してあきらめずにやり抜く姿勢を持ち、当局のさまざまな妨害を突破し、毅然としてソビエト区を訪れたという。

ソビエト区で、スノーは取材について極めて高い自由度を与えられた。周恩来は自ら彼のために90日余りのスケジュールを調整し、結局4カ月にまで延長した。彼は毛沢東など中国共産党指導者をインタビューし、一般の戦士や農民とも直接交流した。そこで初めて長征について聞き、「減租減息(貧農や小作農の小作料や利子の引き下げ政策)」やアヘン撲滅、農民への文化教育活動などを知った。北京に戻った彼はソビエト区での取材結果を公表し、37年に英語版の『中国の赤い星(中国名・西行漫記)』が出版され、西側諸国にセンセーションを巻き起こした。西側世界は初めて詳細に、真実の中国共産党について理解したのだった。当時、国民党政府は米国大使に、「ニセ情報」を流したと訴えたが、スノーはネルソン・ジョンソン米国大使に宛てた手紙で、自らの「赤い中国」に関する報道について「米国人記者として、私には目にした実情について話す権利を――中国人記者が米国で持つのと同じように――持っているのです」と述べた。

『中国の赤い星』によって、国際社会では中国の抗日への声援や、中国共産党関係者と接触しようという動きが巻き起こった。彼らの中にはカナダ人医師ノーマン・ベチューン、インド人医師ドワルカナート・コトニス、米国人のヘレン・スノー、アグネス・スメドレー、アンナ・ルイス・ストロング、イスラエル・ エプスタインら外交官、作家、記者たちがいた。西側世界には「紅区熱(中国共産党支配地域ブーム)」が起こった。

スノーは41年に米国に戻った後も、中国の革命と社会の発展に関心を持ち続けた。冷戦時代には米国の「マッカーシズム」の迫害を受け、米国を追われ、スイスに移住した。それでも彼は信念を堅持し、米国が対中政策を改めるようにという提案を何度も行った。彼は「私は間違っていない……一貫して中国共産党は真の共産主義者であり、間違っているのは生半可な知識しか持たないマッカーシーたちだ……」と語った。

70年、スノーは北京を訪れ、国慶節の式典に参加したが、これが彼の最後の中国訪問となった。彼が天安門上に姿を現すと、これは中国の指導者が米国に対話回復を願っていることを暗に伝える微妙なサインだとして、一時的に大騒ぎになった。スノーによれば、毛主席は彼に、観光客としてであろうと大統領としてであろうと、ニクソン氏が中国を訪問するのを歓迎すると語ったという。しかし、当時の米国メディアはスノーの文章を掲載することを拒んだ。

72年、ニクソン大統領の訪中が実現したが、その3日前にスノーはこの世を去っていた。毛沢東、周恩来、宋慶齢、ニクソンなどがこの米国人記者に弔文を送った。宋慶齢は「中国人民は、中米人民の友好に力を尽くした疲れ知らずの活動家エドガー・スノーを永久に記憶し続けるだろう。太平洋の両岸の子孫たちは彼の恩恵を受ける……」と書いている。生前の願い通り、彼の遺灰の半分はニューヨークのハドソン川の川岸に、もう半分は北京大学の未名湖の湖畔に埋葬された。墓碑には「中国人民の米国の友人エドガー・スノー」との銘が刻まれている。

1970年10月1日、スノーは毛主席と共に天安門に立った(写真提供・中国国際友人研究会) スノーは保安で長征に参加した徐特立を取材した。左から徐特立、黄華、王琳、スノー(写真提供・中国国際友人研究会)

焼きいもをめぐるエピソード

シンポジウムの席上、参加者たちはスノーの精神をしのんだほか、彼と中国に関する物語も披露した。何理良女史は、次のようなエピソードを紹介した。彼が70年に中国を訪問した時は、文化大革命の時期だった。彼は北京飯店に宿泊したが、部屋にいるとすぐ横の胡同(路地、横丁)で焼きいもを焼くにおいが漂ってきたという。彼はすぐに商店に行って買おうとしたが、商店主は彼に「糧票(食糧配給切符)」を求め彼は呆然としてしまった。それでも後に黄華がスノーに糧票を渡し、食いしん坊の彼を満足させたという。こうしたスノーと中国の小さな物語も、会場の人々に新たな感慨を催させるものだった。

主催者によれば、スノー・シンポジウムは2年に1度、北京と米国のカンザスシティーが交替で開催している。

 

人民中国インターネット版 2016年11月7日

 

 

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