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中国紅茶の旅(1) 江西省にも武夷山があった?!

須賀努=文・写真

 

 須賀努

  茶旅人、1961年東京生まれ。上海語学留学、北京、香港、台北で合計17年滞在。「茶旅」でアジア各地の茶畑、茶荘などを訪ね歩く。

 

 「茶発祥の地は中国」という話はよく知られているが、「紅茶の発祥地は?」と問うと、なぜかインドなどという答えが返ってくることがある。中国と紅茶はそれほどに遠く、結び付かないものだった。それは従来中国人が紅茶を飲む、というイメージがなかったからだろうか。だが最近の中国における紅茶ブーム、とりわけ福建省の金駿眉に代表される高価な紅茶の登場により、その認知度は格段に上がっており、一般の人々が中国の紅茶に興味を持ち始めている。

そんな中、中国紅茶を扱う中国の友人の紹介により、各地の茶産地を訪ねる機会が得られることになった。その数は何と18カ所もあるというので、驚いた。この機会に紅茶の好きな人にも、そうでない人にも、中国の紅茶産地の存在を示し、その歴史背景、文化背景、そして現状を紹介できればと思っている。なお中国では筆者が15年前から使用している「茶旅」という言葉が、最近各地で聞かれ、新たな産業化の気配がある。

 

江西省にもあった武夷山

お茶の故郷として名高い福建省、中でも武夷山は世界遺産にも登録されている風光明媚な観光地であり、かつ岩茶と呼ばれる烏龍茶などでも知られる有名な茶産地である。実は世界の紅茶の発祥の地も、ここ武夷山の桐木村といわれているが、現在は自然保護地域であり、一般人は立ち入り禁止となっていると聞き、訪問を断念した。

この話を福州の友人にすると、「それなら江西省へ行こう!あそこにも武夷山があるぞ!」と言われ、何のことやら分からなかったが、紅茶もあるというので、彼に連れられて、武夷山から車で江西省へ向かった。今や高速道路網が全国を網羅する中国。ここでも高速ですぐに江西省側へ抜けたが、その道のりにはトンネルがいくつかあって、最長のものは6㌔にも及び、昔の人は一体どうやってここを越えていったのだろうか、と思うほどだった。

そして車は川沿いに大自然の中に入っていく。周囲に民家もなく、水の流れは清らかで、木々が流れるように連なっている。ここは江西省武夷山自然保護区、国指定の自然資源だが、観光客の姿は全く見られない。江西省に武夷山があるなんて、と信じられない思いだったが、よく考えてみれば日本の富士山も静岡県から見るだけでなく、山梨県側からも見ることができるのだから、それと同じことだったのだ。

 

「万里茶路」の最初の鎮 河口

その中に忽然と現れたのが、「河帮茶廠」という名前の茶工場であった。一体なぜこんなところで茶を作っているのだろうか。しかも作っているのは福建側にある烏龍茶類ではなく紅茶であり、その地名も桐木関と、福建の桐木村を想起させる。

筆者は現在「万里茶路(万里茶道ともいう)」という、福建・湖南・湖北で作られた茶葉がモンゴル、そしてシベリアを経由して、はるかロシアのモスクワ、サンクトペテルブルクまで運ばれた国際商業ルートに強い関心を持っているが、その福建で作られた茶葉が、ここに運ばれ(茶葉を肩に担いであの山を足で越えたというから驚きだ)、数百名の茶師がその茶を加工して、万里茶路、そして広東経由でヨーロッパへ輸出された歴史を持つと説明された。ちなみに河帮とはこの付近の中心都市である河口(現在の上饒市鉛山県)に集まった茶師たちを指す。

この河口が栄えたのには歴史的な意味がある。1757年、清朝の乾隆帝(在位1736~95年)は、ヨーロッパとの国際的な貿易を広東1港に制限した。その結果、福建省側の武夷山などで作られていた茶の交易ルートであった福州やアモイ(廈門)など沿岸地域の港が閉ざされてしまい、広東への近道として、また万里茶路のルートに乗せるため、江西省側の河口に茶葉が集中した。

河口を流れる信江から、珠江につないで広東へも出られ、そのまま漢口から万里茶路へも接続できた。さらには上海方面へも川がつながっており、茶葉が3方に運べる絶好の立地が存在していたということである。但しその繁栄はアヘン戦争をもって終焉を迎える。福州、アモイ、上海が開港され、河口の優位性は一気に崩れてしまった。100年の夢、とでもいえばよいだろうか。

 

河口の現状

 

さびれゆく河口古鎮

 

河口の古鎮はやはり川沿いに面して残っていたが、残念ながら、武夷山自然保護区とは対照的に、その保護は十分とはいえず、徐々に朽ち果てようとしていた。よく見ると、家の地下から通路がつながっており、直接川に出られるようになっているところもあり、茶葉の搬入に使われた往時をしのぶことができた。ただ川辺から港は全く姿を消しており、洗濯する女性が目に入っただけだった。

万里茶路の歴史的な意味が中国各地で盛んに宣伝される中、ここ河口でも少しずつこの歴史を見直す動きはあるようだった。古鎮の中の古い建物を改装して茶荘を開き、その歴史を説明しているところも見受けられた。前述のように、紅茶そのものを復活させ、ビジネスにつなげることにより、河口の歴史的意義を問い直す活動も始まっている。

河口で加工された紅茶については、その輸出先であったイギリスなど、海外からの関心も高まっており、大学の研究者などは直接この地に、資料を求めて訪れているとも聞いた。これからこの地では、茶の歴史、豊かな自然環境、そして新たに作られる紅茶で、文化旅行産業の華が開くだろうか。いずれにしても250年前の紅茶が一体どんな味や香りであったかは、誰にも分からないのだが。

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