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三回の土地改革が農村を変えた (2)史上最大の土地改革

 

木版画『土地改革法を争うように見る』(朱宣咸 1950年作)
新中国が成立したばかりのころ、楡林村の村民の生活状態はどうだったのか。81歳になる馮儀さんと79歳の李栄祥さんの話を聞いた。

2人のお年寄りは口をそろえてこう言う。「共産党が指導した土地改革によって、私ら農民は解放されて立ち上がり、良い暮らしができるようになり始めたのです」

解放前、畑仕事で生きていた農民たちは、土地を持たないか、あるいは少ししか持っていなかった。一家が食べてゆくため、ある者は地主の土地を借りて作物を植えたが、収穫の半分以上を地主に納めなければならなかった。ある者は長年、地主の作男となった。楡林村でもっとも腕の良い作男でも、正月の5日から立冬まで1年270日以上死ぬほど働いても、手間賃はトウモロコシ6袋(1袋は75キロ)に過ぎなかった。

馮儀さんの家は貧しかった。小さいころから地主の家に働きに出され、草を刈ったり、豚の世話をしたり、庭を掃いたり、家畜小屋の中の藁を取り替えたりしていたが、1年に30キロの小麦しかもらえなかった。だから当時、馮儀さんの家はいつも飢えていた。

楡林村とその付近の村は、「老解放区」(新中国成立以前に解放された地区)であったので、1946年に土地改革が始まった。近代の中国では、「太平天国」(19世紀中期の農民蜂起)の指導者である洪秀全や偉大な民主革命家である孫文(中山)が「地権の平均」や「耕す者がその田を有す」という土地改革を提唱した。しかし、共産党が指導する新中国になってはじめて、農民の千年来の夢が実現したのである。

楡林村の土地改革は、村民一人平均である2ムーの土地を超す地主の土地が没収され、無償で土地のない、あるいは土地の少ない農民に分配された。当時、馮儀さんと李栄祥さんは人民政府の発給した「土地証書」を受け取ったとき、その喜びと感動は言葉では言い表せないほどだったという。

村民の斉福さんには3人の兄弟がいたが、以前は3人が地主の作男をし、1人は行商をしていた。一家は7人で、木と枝を組んで泥を塗っただけの掘立て小屋に住み、赤貧洗うが如き暮らしだった。

しかし、土地改革で土地を分けてもらった最初の年、一生懸命働き、他人の土地も耕して、大豆15袋、トウモロコシ30袋以上、雑穀6袋を収穫した。食糧は食べきれないほどで、余った食糧は換金した。そして2年目には5部屋もある大きなレンガと瓦の家を建てた。

1956年1月1日、遼寧省蓋平県で、1万5千人の農民が「太陽昇」という集団農場を結成した(新華社)

以前、4兄弟はひどく貧しかったので、嫁取りなどは話にもならなかった。しかし土地改革後、兄弟は次々に自分の家を建て、妻を娶り、子を授かった。日が経つほどに暮らしは豊かになっていった。

土地改革が行なわれ、実りは豊かで、農民の暮らし向きは楽になった。その翌年の春節(旧正月)は、村の至るところで爆竹が鳴らされ、ドラの音が響き、ヤンコー踊りや高足踊り、舟こぎ踊りなどが繰り広げられ、それはそれは賑やかだった。

中国北部では、大晦日に餃子を食べるのが習わしだ。しかし以前は、農民は貧しく、餃子をつくっても食べなかった。「正月元日につくった餃子を2日に煮る。2日に煮た餃子は5日までそのままにしておく」と言われる。客が来てはじめて餃子が出される。窓際に腹ばいになって客が餃子を食べるのを見ている子どもは、食べたくて涎を流すのだった。

だがその年の春節は、どの家でも多くの餃子をつくり、大人も子どももみな心行くまで食べた。人々は「いまは、毎日餃子を食べても、まだ食べられる」と言った。

全国的にみると土地改革は、早く行なわれたところも遅かったところもあるが、1952年に基本的に完了した。これは中国の歴史上、最大規模の土地改革であり、2000年以上続いてきた封建的な土地所有制度を打ち砕き、それによって3億人以上の、土地がないか土地の少ない農民が、無償で約7億ムーの土地と生産手段を獲得し、毎年地主に地租として納めていた350億キロ以上の食糧が免除されたのである。

これにより、農民の生産に対する積極性が大いに引き出され、農業生産の発展を促進した。統計によると、1952年の全国の食糧生産量は、1949年より42.8%増加した。

 

人民中国インターネット版 2009年2月16日

 

 

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