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若芽が巨木に はたちになった中国資本市場

 

沈暁寧 王焱=文 中国証券監督管理委員会=写真提供

1990年末、上海と深圳に相次いで証券取引所が開設された。新中国成立以来、正規の取引所がない状態に終止符が打たれ、中国資本市場がゼロから出発したことを意味している。設立当初の上場企業はわずか10数社だったが、今では2千社を超え、出来高は27兆元を目前にしており、世界第二の大市場に成長した。株、ファンド、新株予約権、社債、転換社債、融資・貸し株、先物など取り引きの種類も豊富になってきた。さらに、2001年、中国は世界貿易機関(WTO)に加盟した。古代の思想家・老子はかつて「一抱えもあるような巨木も若芽から生じる」と説いている。この20年間に、中国は資本小国から資本大国に成長。長くもなく短くもないこの間の歩みは人目を引く成果を収めたとはいえ、決して平坦な道ばかりではなかった。

鄧小平氏の「南巡講話」がゴーサイン

 

貧乏学生たちが証券市場構想

1990年12月19日午前、上海黄浦江河畔にあり、長い歴史を誇る浦江飯店が再び時代の脚光を浴びた。新中国初の証券取引所として上海証券取引所がこの日からここで開業したのだ。中国人民銀行(中央銀行)上海支店の尉文淵管理処副処長が代理の取引所理事長として、取り引き開始のドラを打ち鳴らした。彼は当時を振り返って「あのドラは少し音がくぐもっていました。私たちが想像していたような腹に響くような音ではありません。そこで私は思い切りたたいて、大きな音を出しましたよ」と語っていた。

新中国初の証券市場開設を提起したのは、株式市場など見たこともない貧乏学生たちだった。1984年、中国人民銀行で研修していた20数人の研修生たちが『中国金融改革戦略の研究』と題する世の中を驚かせるような論文を発表した。その中で、初めて証券市場設立構想を打ち上げた。

1984年、新中国になって最初に発行された上海飛楽音響公司の株券

思想上の大旋風起こす  

上海証券取引所が設立される前は投資家は中国工商銀行の証券カウンターで株券を購入した

この奇想天外な構想は思想上の大旋風を巻き起こした。多くの人々は株とか証券市場は資本主義社会のものだと考えていたからだ。この論文の発起人の一人だった元中信嘉華銀行総裁の蔡重直氏は、当時、証券市場構想を語る場合でも、マルクス・レーニン全集の中に理論的根拠を見出さなければならなかった、と回想している。一方で、1978年に始まった「改革開放」は活況を呈し始めていた。北京天橋公司、上海飛楽音響、深圳発展銀行など数社が株式会社の設立に着手していたが、証券市場が存在しないため彼らが発行した株は一般の市場で交換されていた。

50元の株券を手渡す  

1986年11月14日、人民大会堂で、鄧小平氏(左端)が「改革開放」政策の象徴として、発行されたばかりの一枚の株券をニューヨーク証券取引所のジョン・フェラン理事長(右端)にプレゼントした

1986年11月14日、人民大会堂でニューヨーク証券取引所のジョン・フェラン理事長が鄧小平氏に2つの特別な土産を手渡した。ひとつはニューヨーク証券取引所のバッジで、もうひとつは株券の見本だった。これに対して鄧氏も意義深いお返しを手渡した。上海市場に上場されたばかりの額面50元の上海飛楽音響の株券だった。当時の『朝日新聞』は1ページの全面特集記事で、鄧氏が行ったことは中国が株式制度を導入するシグナルだ、と大々的に報じた。

しかし、株式制度が中国の社会主義政治制度に適合するかどうか、という論争はずっと続いている。中国が株式市場を止めるか続けるかの歴史的な関頭にさしかかった時、1992年、鄧氏が南方視察で「証券、株式市場というものが結局良いものか、悪いものか、あるいは危険があるのかないのか、資本主義特有のもので、社会主義で使えるのか使えないのか。考えてみるのもよいが、決然と試してみなくてはならない」と指示した。この「南巡講話」によって、株式制度と株式市場の試験的な改革が是認された。これが中国に株式制度が根を下ろし、芽を出すきっかけだったことは疑いの余地がない。

1992年、上海証券取引所は株価を全面的に自由化した。先を争って株券を買う大勢の一般投資家たち

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