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悪循環脱して相互利益を

 

外交学院副院長 江瑞平

 中国経済の「新常態(ニューノーマル)」に関心を持つなら、日本の経験をよく見なければならない。日本の戦後の経済発展は3段階に分けられる。最初の25年間は日本が急成長した時期で、世界中が注目した「日本の奇跡」を作り出した。最後の25年余は全体的にいえば衰退と不況の中にある「失われた25年」だった。前後の25年間でなぜ天から地に落ちたような違いが生まれたのだろうか? 筆者は中間の20年間に日本の調整と改革が成功しなかったことに鍵があると考えている。

失われた日本の有利な条件

 70年代初め、米国の「ニクソンショック」をきっかけに貿易投資自由化、安定的な金融システム、円安の全てが大きな影響を受けた。円レートは何度も上昇し、85年の「プラザ合意」前には3分の1前後上昇し、1㌦は360円から240円になった。さらに73~82年に2度の石油ショックが起き、石油低価格時代は終えんを迎えた。こうした要因により、戦後日本の高度経済成長を支えた有利な国際的条件は全て失われ、日本も調整を迫られた。

 80年代は調整と改革の時代だった。米国の調整と改革は成果を挙げ、新自由主義を推し進めることで90年代の新経済に有利な制度的条件を作り上げた。中国もこの時期に改革開放に力を入れ、経済の急成長の軌道を走り始めた。日本と旧ソ連も調整と改革に乗り出したが、残念ながら基本的に失敗してしまった。この10年間の調整と改革が理想的な効果を挙げられなかったため、現在も続く25年間の日本経済の停滞と不況という総体的な状況が決まってしまった。

 中国は三十数年間の改革開放の過程で、目を見張るばかりの成果を獲得したが、発展に付随する問題も出てきた。その中には、80年代の日本が直面した問題に非常によく似た点も浮き彫りになっている。例えば経済のバブル化や元高圧力などだ。80年代の日米経済関係と現在の中米経済関係もよく似ている。当時、米国の対日貿易赤字は米国の貿易赤字総額の半分前後を占めていたが、昨年の米国の貿易赤字は依然として経済発展の核心的な問題で、その50%近くが対中貿易赤字だった。これは成功の経験と失敗の教訓も含めた日本のかつての体験が、中国の直面する経済発展の問題にとって現実的に参考とする価値があることを意味している。

 もし当面の日本経済を観察するなら、周期性に関する短期的な観察を長期的な歴史的変遷の大枠の下に置き、分析してこそ意義がある。こうすることによって、中国の当面の改革開放と経済発展にいっそう価値のある参考とすることができる。

「5大発展理念」は長期指針

 中国は「第13次5カ年計画(13・5)」で、「5大発展理念(イノベーション・協調・グリーン・開放・シェア)」を提起した。単に「13・5」期間にとどまらず、将来の長期間、中国はこうした発展理念を指針として発展していくだろう。

 「13・5」にはこれまでの計画と異なる表現が数多く出てくるが、改革の多くのジャンルで「イノベーション(創新)」という言葉が使われている。これは中国が「改革」に力を入れなくなったのではなく、改革をさらに広範で、さらに高度の段階であるイノベーションに引き上げ、展開しようということだ。このイノベーションは制度やシステムのイノベーションを含んでいる。つまりこれは改革なのだ。「イノベーション」によって多くの側面で、中国経済の良好な安定的発展にふさわしい経済体制をさらに全面的に、さらに系統的につくり出すことを求めている。

 こうした状況下で「5大発展理念」はつながっている。このうち「開放」の発展理念は「5大理念」の一つだが、これまで一貫して「開放が改革を迫る」と強調してきたことも含めて、その他の四つの理念も「開放」から遊離することはない。

 「協調」の発展理念にも開放に関する内容が多数盛り込まれている。例えば地域協調発展の面では、以前の中国の開放の多くは東南沿海地区からだった。一方、目下全力で推進中の「一帯一路(シルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロード)」建設は、開放の枠組みを東南沿海地区から西北国境地区に広げている。これは異なる地域の開放の協調を意味しており、もちろん異なる地区の発展の協調も推し進めるだろう。この重大な変化により、西北内陸地区は積極的に国境の陸路を対外開放し、これまでのように間接的に東南沿海地区の開放に依存して動く必要はなくなるだろう。このように中国は陸路、海路の二つのルートを同時に発展させ、さらに広範な発展を実現する開放的な構造を構築したといえる。

 「グリーン」の発展理念が主に強調しているのは経済・社会の発展と自然環境の間の関係だ。この方面で日本は成功の経験と失敗の教訓を持っており、両方とも中国は学習すべきだ。これはまた中日協力の新しいジャンルであり、新しい余地が生まれる。

 開放そのものについて言えば、もし日本のような経済大国から離れ、中日貿易関係をこれ以上進めないとすれば、中国の開放も不完全になる。「シェア」の発展理念は中日協力の新たな方向性をはっきりと示している。

日本の貢献忘れてはいない

 80年代、中国は改革を日本から学び、日本に対して開放した。当時、中国は計画経済体制から市場経済体制への転換に力を入れ、市場経済の先進国から学ばなければならなかった。欧米のモデルは中国にとって早急に当てはめるのは困難であり、双方の社会的、文化的な背景も異なっていた。日本だけが中国と多くの相似性があり、中国は改革の当初から日本に学んだ。中国が米国モデルを学び始めたのは90年代に入ってからのことだった。

 日本は中国の対外開放の主な対象で、初期の開放の枠組みで重要な位置を占めていた。85年には中国の対日貿易は対外貿易全体の27・2%を占めていた。しかし、昨年この割合はわずか7%に下落し、日本は中国の対外貿易で欧州連合(EU)と米国、東南アジア諸国連合(ASEAN)に次ぐ第4位になった。中国の対外貿易構造において対日貿易の地位が大幅に下がったことによって、中国の対外経済発展はますます日本に依存しないようになったと感じさせた。

 別の角度から見ると、「日本の対外経済・貿易はますます中国に依存するようになっている」という言い方にも変化が現れている。これは11年に最もよく耳にした表現だ。中国は米国に代わって02年に日本の最大の輸入相手国となり、07年に最大の貿易相手国となり、09年には最大の輸出相手国になった。日本経済は確実にますます中国に依存するようになっていた。11年当時、日本の輸出のうち対中輸出は19・7%、対米輸出は15・3%を占めていた。しかし、ここから逆転の傾向が現れた。昨年、中国の比率は17・5%に下がり、米国の比率は20・1%に上昇したのだ。

 12年から中日経済関係は急激に冷え込んだ。同年の日本の対中直接投資は中国の受け入れ外資の6・5%だったが、昨年には4㌽減の2・5%ほどに下がった。また、12年までに日本の対ASEAN投資は対中国大陸部とほぼ同程度だったが、13~14年には約3倍にまで上昇した。もともと中国大陸に投資する予定だった日本の資本が、現在ではASEANに多く投資しているという意味ではないだろうか。この変化を招いた多くの要素のうち、中日政治関係の継続的な悪化が重要な原因になっていることは明らかだ。

 中日政治関係の継続的な悪化はかなりの程度、両国経済関係の停滞を招き、経済関係の停滞は経済の相互利益を減少させ、経済的な相互利益の減少はまた中日政治関係の安定的な発展に向けた経済的な基礎を損ねている。こうした悪循環は中日双方が共に陥りたくはない状況だと筆者は認識している。何と言っても、中日両国は世界第2、第3の経済体であり、協力、相互利益を求める経済・貿易関係を発展させることによって、双方に戦略的な利益がもたらされる。中日政治関係に改善の契機が現れたのは、14年11月に北京で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)だった。両国経済関係にもぬくもりが戻る兆しが現れることを願っている。

【ニクソンショック(尼克松冲击)】

1971年8月15日にニクソン米大統領が発表した金・ドル交換停止などの政策転換。

 

 

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