中国共産党の全国代表大会(党大会)の歩み

             【第1回党大会】

  1921年7月23日から31日まで、中国共産党は上海で第1回党大会を開き、党が正式に成立したことを宣言した。出席した代表は毛沢東、何叔衡、董必武、陳潭秋、李達、李漢俊、劉仁静、張国Z、王尽美、ケ恩銘、陳公博、周仏海の12人。彼らは全国の50数名の党員を代表していた。

  大会は、当面の政治情勢を分析し、党の基本的任務はプロレタリア独裁のために闘うことであるが、当面はブルジョア民主主義革命への参加をプロレタリアートに呼びかけねばならないことが確認された。党の組織については、ロシアのボルシェビキ党を模範とすることが決定された。

  大会は、中国共産党の『第一綱領』と『第一決議』を採択し、中国共産党の成立を宣告した。

             【第2回党大会】

  1922年7月16日から23日まで、党は上海で第2回党大会を開いた。出席した代表は、12人で、党員195人を代表していた。陳独秀が会議を主宰した。

  大会は陳独秀、李大サ、蔡和森、張国Z、高君宇を中央委員に選出し、陳独秀が中央執行委員長となった。大会は閉会後、『第二回党大会宣言』を発表した。

  大会は、中国革命を二階段に分けて行うよう指示した。中国近代史上はじめて、帝国主義と封建主義に徹底的に反対する民主主義革命の綱領を提起した。それは中国革命に対し、大きな意義を持つものであった。

  しかしこの大会では、民主主義革命の中におけるプロレタリア階級の指導権の問題や、民主主義革命と社会主義革命との関係に対して認識がまだ十分でなかった。また、労農同盟や農民の土地問題を徹底的に解決すること、および労農政権を樹立するなどの問題に対しても、認識がなかった。

             【第3回党大会】


  1923年6月12日から20日まで、党は広州で第3回党大会を開いた。出席した代表は30数人、そのうち代表権を持つものは19人で、420人の党員を代表していた。陳独秀が大会を主宰した。

  大会の中心的議題は、全ての共産党員や労働者が国民党に参加するかどうかだった。討論の中で多数の代表は、国民党との合作に積極的でない張国Zらの誤った意見を批判するとともに、 コミンテルンの中国駐在代表のマーリンや陳独秀が提起した『すべて活動を国民党に帰す』という右翼的な観点にも賛成しなかった。

  最終的に大会は、共産党員が個人の資格で国民党に加入し、それによって民主的な各階級の統一戦線を作り上げ、同時に共産党が組織的にも政治的にも独立性を保つことを決定した。

  大会は9名の正式委員、5人の候補委員からなる新しい中央執行委員会を選出した。中央執行委員会は、陳独秀、毛沢東、羅章竜、蔡和森、譚平山の5人からなる中央局を選出し、陳独秀が委員長、毛沢東が秘書に、羅章竜が会計に任じられた。

  大会は革命の統一戦線の方針と政策を確定して、国共合作の形成を促したが、プロレタリア階級の指導権の問題や農民問題、軍の問題について、十分重視してはいなかった。

             【第4回党大会】

  1925年1月11日から22日まで、中国共産党は第4回党大会を上海で開いた。出席した代表は20人で994人の党員を代表していた。

  大会の中心的議題は、日ごとに高まる革命運動に対し、党がどのように指導を強化するか、そして宣伝工作、組織工作、大衆工作の面において大革命の高まりを迎える準備をどのように行うか、であった。陳独秀が会議を主宰した。

  大会は、前年5月の中央拡大会議が行った党工作の中の、右の誤りに対する批判を肯定し、改めて中国共産党が国民党と合作すること、労働運動、農民運動などに関しいくつかの方針を定め、プロレタリア階級の指導権と労農同盟の重要性を指摘した。

  大会は陳独秀、李大サら14人による新しい中央執行委員会を選出した。続いて開かれた中央執行委員会で、陳独秀が中央総書記に選出され、陳独秀、彭述之、張国Z、蔡和森、瞿秋白の5人からなる中央局が組織された。

  この大会の主要な欠陥は、指導権の問題を提起したにもかかわらず、指導権をどのように獲得するかについて、具体的で明確な方針に欠け、大衆運動に対する指導権だけを論じて、政権と武装力に対する指導権を完全に無視したところにある。農民が革命の同盟軍であることを提起してものの、土地革命こそが農民問題を解決するという根本思想を提起できなかった。

             【第5回党大会】

  1927年4月27日から5月9日まで、党は第5回党大会を武漢で開いた。出席した代表は80余人、5万7900余人の党員を代表していた。

  大会の主な任務は、コミンテルン執行委員会第7回拡大会議における中国問題に関する決議案を受け入れ、陳独秀の日和見主義の誤りを是正して、党の重大な方針と政策を決定することであった。陳独秀が開幕式を主宰した。

  大会では、代表たちが陳独秀の右翼の投降主義に対して一定の批判を行った。蔡和森は「プロレタリア階級の政党こそが、革命を徹底的に指導し、勝利をかち得る事ができる」と発言し、毛沢東は、陳独秀の農民の問題に関する誤りを批判し、農民を組織し、武装させ、農民の闘争を迅速に強化することと主張した。

  大会は29人の新しい中央委員会を選出し、大会に続いて開かれた一中全会で、陳独秀ら7人の中央政治局委員、周恩来ら4人の政治局候補委員を選出、さらに陳独秀、張国Z、蔡和森、瞿秋白の4人を政治局常務委員に、陳独秀を総書記に、周恩来を秘書長に選んだ。

  この大会は、陳独秀の右翼的な誤りを批判したものの、武漢の国民党と国民政府の改造、革命武装力に対する党の指導を組織し、拡大することなど、革命の指導権奪取のために解決しなければならない切迫した重大問題に対して、実際的に答えを出すことができなかった。陳独秀の右翼的な投降主義の本質と危害に対しても、深い認識に欠けていた。

             【第6回党大会】

  1928年6月18日から7月11日まで、第6回党大会がモスクワで開かれた。出席した代表は142人だった。

  会議は政治、軍事、組織、土地問題、農民問題と労働運動に関する14項目の決議を採択した。これらの決議は「中国社会の性質は依然として半植民地、半封建の社会であり、現段階における中国革命の性質は、ブルジョア民主主義革命である。現在の政治情勢は、革命の高潮期と高潮期の谷間にあり、党の全体的任務は進撃ではなく、大衆を獲得し、暴動を準備することである」と指摘した。

  会議はまた中国革命の現段階における十大政治綱領を制定した。その綱領では、党の建設、労働運動、農民の運動、紅軍、根拠地の建設についての各項の政策を制定し、"左"と右の日和見主義の誤り、とくに盲目主義の誤りを批判した。

  会議はまた、委員23人、候補委員13人からなる中央委員会を選出した。そして中央政治局常務委員会は向忠発、周恩来ら8人で構成され、主席に向忠発が選ばれた。

  この大会が制定した路線は基本的に正しく、後の中国革命の発展に対して積極的な役割を果たした。しかし欠陥もあった。即ち中産階級の役割や反動勢力内部の矛盾に対して正しい見方と政策に欠けていた。とくに中国革命の長期性と農村革命根拠地の重要な意義に対する認識が足りず、依然として都市工作を全党の活動の中心に据えた。これは、中国革命の発展に消極的な影響を及ぼした。

             【第7回党大会】

  1945年4月23日から6月11日まで、第7回党大会は、延安の楊家嶺中央大講堂で開催された。会期は50日だった。大会に出席した正式代表は547人、候補代表は208人で、全国の121万の党員を代表していた。

  大会の主要な議事日程は、毛沢東による政治報告(『聯合政府論』)、劉少奇による党規約の改正報告、朱徳による軍事報告(『解放区の戦場を論ずる』)、周恩来による報告(『統一戦線を論ずる』)、任弼時による党の歴史問題に関する報告、新しい党規約の制定、新しい中央委員会を選挙であった。

  6月9日、44人の中央委員を選挙し、10日、33人の同候補委員を選挙した。11日、大会は閉幕を迎え、毛沢東が『愚公 山を移す』と題する閉幕の辞を述べた。

  大会は、毛沢東思想の全党における指導的地位を確立し、歴史の経験を総括して新民主主義の新中国を作り上げるために、正しい路線、方針、政策を制定して、思想的、政治的、組織的に、全党をかつてないほど団結させた。

  続いて開かれた一中全会で、毛沢東を中央委員会主席兼政治局、書記処主席に選出、書記処書記に毛沢東、朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時が選ばれた。

            【第8回党大会】

  第8回党大会の第一回会議は、1956年9月15日から27日まで北京で開催された。正式代表は1026人、全国の1073万人の党員を代表していた。

  会議は主に以下の数点を確定した。

    (1)  国内の主要な矛盾に関する新しい結論を提起し、党と国家の任務の重点を社会主義建設に移すという重大な戦略的政策転換を決定した。
    (2)  総合的でバランスのとれた、着実に前進する経済方針を堅持する。
    (3)  思想、文化の建設の重要性を強調する。
    (4)  重点的に執政党の建設問題を提起し、党が特定の個人やその人の功績をきわだたせたり、個人の功績をむやみに誉め称えたりすることに重ねて反対する。

  この路線は正しいものだった。それは新しい時期の社会主義事業の発展と党建設ための方向を明示した。

  一中全会では、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、ケ小平を政治局常務委員に選出した。総書記にはケ小平を選んだ。

  第二回会議は1958年5月5日から23日まで北京で挙行された。この会議で通過した社会主義の総路線とその基本点は、広範な人民大衆の切迫した要求――わが国の経済、文化の立ち遅れた状況を改善したいという普遍的な願望を反映している正しい一面があるとともに、客観的な経済法則を軽視したという欠点もあった。

  五中全会は1958年5月25日、北京で行われ、中央委員会副主席、政治局常務委員に林彪を選んだ。

  八中全会(廬山会議)は、1959年7月2日から8月16日まで、江西省廬山で挙行された。彭徳懐を批判し、黄克誠の書記処書記の地位を取り消し、右翼日和見主義に反対するなどの決議を採択した。

  十一中全会は、1966年8月1日から12日まで北京で開催された。8月5日、毛沢東は『司令部を砲撃しよう――私の大字報』を書いた。8月8日、会議は『プロレタリア文化大革命に関する決定』を可決した。8月12日、毛沢東を主席に、林彪を副主席に選んだ。

  十二中全会は1968年10月13日から31日まで北京で開かれた。会議は江青、康生、謝富治などが偽証に基づいて書いた劉少奇の罪行審査報告を批准し、永遠に劉少奇を党から除名することを決定した。

  この間の10年にわたって、毛沢東同志の、社会主義社会における階級闘争に関する理論上、実践上の誤りはますます重大なものに発展した。彼個人の独断的なやり方は次々に党の民主集中制を損ない、個人崇拝の現象が次第に発展した。

             【第9回党大会】

  1969年4月1日から24日まで北京で開催された。出席した代表は1512人、全国の2200万人の党員を代表していた。大会は、党規約の中に、林彪を「毛沢東同志の親密な戦友であり、後継者である」と前文に書き入れることを決めた。

  会議は、毛沢東を主席に、林彪を副主席に選び、この二人のほか陳伯達、周恩来、康生を政治局常務委員に選出した。

  この大会は、「文化大革命」の誤った理論と実践を合法化し、林彪、江青、康生らの党中央における地位を強めた。この大会の思想的、政治的、組織的指導方針はすべて誤りであった。

  二中全会は、1970年8月23日から9月6日まで、廬山で開かれ、林彪が毛沢東を天才であると大いに称えるとともに、国家主席を置くべきだと主張した。

            【第10回党大会】

  1973年8月24日から28日まで北京で開かれた。出席した代表は1249人、全国の2800万人の党員を代表していた。

  この大会は第9回党大会の「左」の誤りを引継ぎ、しかも王洪文を党中央の副主席に就任させた。江青、張春橋、姚文元、王洪文は中央政治局内に「四人組」を結成し、その勢力はますます強化された。

  一中全会は、毛沢東を主席に、周恩来、王洪文、康生、葉剣英、李徳生を副主席に選んだ。

  二中全会は、1975年1月8日から10日まで、北京で開催された。1975年1月5日に党中央が発した一号文件で、党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長、国務院第一副総理にケ小平を任命した。またケ小平を党副主席、政治局常務委員に選んだ。

  三中全会は1977年7月16日から21日まで北京で開かれた。会議は『華国鋒を党中央主席、中央軍事委員会主席に追認する決議』『ケ小平同志の職務を回復する決議』を採択し、王洪文、張春橋、江青、姚文元を党から永遠に除名することを決定した。

            【第11回党大会】

  1977年8月12日から18日まで北京で開催された。出席した代表は1510人、全国の3500万人以上の党員を代表していた。

  大会は「四人組」との闘争を総括し、「文化大革命」の収束を宣言した。そして今世紀中に、我が国を社会主義の近代的な強国にすることが、新たな時期における党の根本的任務であることを重ねて表明した。

  しかし、当時の歴史的条件の制約と華国鋒の誤った影響のため、大会は「文化大革命」の誤った理論や政策、スローガンを是正することができず、かえってこれらを肯定した。

  大会は新しい中央委員会を選挙し、一中全会で華国鋒を党主席に選出した。

  三中全会は、1978年12月18日から22日まで北京で開かれた。会議の中心議題は、全党の活動の重点を社会主義近代化建設へ転換することであった。会議は党の正しい思想路線を再確認し、「二つのすべて」の誤った方針を批判し、毛沢東思想の科学的な体系を、完璧に、かつ正確に掌握し、運用する必要性を十分に認め、「真理の基準」に関する問題の討論を高く評価して、思想を解放し、頭を働かせ、実事求是でものごとを行い、一致団結して前進する指導方針を確定した。

  会議は改めて、党の正しい政治の路線を確立し、「階級闘争を要とする」という、社会主義社会に合わないスローガンの使用を果断に停止して、党の11回党大会が踏襲した「文化大革命」中のいわゆる「プロレタリア独裁の下での継続革命」や「文化大革命は今後何度も行わなければならない」などの「左」の誤った観点を否定した。

  また会議は、党の正しい組織路線を再び確立し、党の規約、規律や全党の民主集中制を健全化し、個人崇拝を受け入れたり、それを造り出したりすることに反対し、集団指導を強化することを決定した。

  会議また、党の歴史上の重大な冤罪と、重要指導者の功罪と是非の問題を審査し、解決した。その中には、1959年の廬山会議で彭徳懐に対して下された、誤った批判や結論、薄一波ら61人の事案、「右からの巻き返し」や天安門事件の誤った文件、およびケ小平の1975年の仕事に対する評価に関することが含まれていた。

  会議は、国民経済の重大なアンバランスを解決することに注意を払うよう要求するよう提起し、農業の発展を加速させることを決定し、『農業の発展を加速することに関する若干の問題に関する党中央の決定(草案)』と『農村人民公社工作条例(試行草案)』を省、自治区、直轄市レベルで討論、試行することに同意した。農業を発展させるためには、まず農村で改革を実行し、生産量に連動した責任制を推進しなければならないと決定した。

  これらの大きな意義を持つ転換は、党が再びマルクス主義の思想路線、政治路線、組織路線を確立し、ケ小平を核心とする第二世代の中央指導グループが形成され始めたことを示している。
  この会議は、建国以来の党の歴史上、深い意義を持つ偉大な転換であった。それは、中国を発展途上の社会主義の国家から富強で民主的、文明的な社会主義の近代的国家に変えようとする転換であった。

  五中全会は1980年2月23日から29日まで、北京で開催された。胡耀邦、趙紫陽を政治局常務委員に選び、党の中央書記処を再建し、胡耀邦を総書記に選んだ。また劉少奇同志の名誉回復を徹底し、彼に関する誤った決議を取り消し、彼の名誉を回復した。さらに汪東興、紀登奎、呉徳、陳錫聯の辞職願を許可して、彼らが担当していた党と国家の指導職務からはずした。また全国人民代表大会に対し、憲法第45条の「公民が大鳴、大放、大弁論、大字報を用いる権利」の規定を取り消すよう提案した。

  六中全会は1981年6月27日から29日まで北京で開かれた。会議では、『建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議』が全員一致で通過した。この『歴史決議』は、毛沢東の歴史上の地位と毛沢東思想を肯定し、実事求是で、建国以来の32年間の功罪と是非を評価し、徹底的に「文化大革命」と「プロレタリア独裁の下での継続革命」の理論を否定し、党の指導思想の混乱を鎮め、正常にもどすことを成し遂げた。会議は一致して、華国鋒が党中央主席と中央軍事委員会主席の職務を辞職する願いに同意した。

            【第12回党大会】

  1982年9月1日から11日まで、北京で開かれた。正式代表1545人、候補代表は149人で、全国の3965万以上の党員を代表していた。

  大会は、胡耀邦の『全面的に社会主義現代化建設の新局面をつくり出す』との報告を批准する決議を行った。『報告』は、新しい時期における党の総括的な任務を明確に規定し、我が国の経済発展の戦略目標、戦略の重点、戦略のステップを制定した。また共産主義思想を核心とする高い精神文明の建設を提起し、高度の社会主義民主を建設する根本方針を制定した。さらに党を、社会主義現代化建設の強固な指導中核にすることを強調した。

  新しい党規約によって、党中央には主席を置かず、ただ総書記だけを置くことになった。また大会は、中央顧問委員会を設立することを決定した。一中全会は、総書記に胡耀邦を、政治局常務委員に胡耀邦、葉剣英、ケ小平、趙紫陽、李先念、陳雲を選出、中央書記処書記に万里、習仲勲、ケ力群らをそれぞれ選んだ。

  七中全会は1987年10月20日、北京で開かれた。会議は、1987年1月16日に党中央政治局拡大会議が行った胡耀邦の総書記職務を辞任する請求を受け入れ、趙紫陽を総書記代行に推薦する決定を確認した。

            【第13回党大会】

  1987年10月25日から11月1日まで北京で開かれた。大会の正式代表は1936人、特別招請の代表は61人。全国の4600余万の党員を代表していた。

  会議の主要テーマは、改革の加速と深化だった。ケ小平が大会開幕式を主宰した。趙紫陽が『中国の特色をもつ社会主義の道に沿って前進する』との報告を行った。この中で、社会主義の初級段階の理論を詳しく述べるとともに、党のこの段階における「一つの中心、二つの基本点」を提起し、21世紀中葉までに、三段階に分けて現代化を実現する発展戦略を制定し、政治体制改革の任務を提起した。

  一中全会では総書記に趙紫陽、政治局常務委員に趙紫陽、李鵬、喬石、胡啓立、姚依林が選ばれた。

  四中全会は、1989年6月23日から24日まで北京で開催された。会議は、李鵬が党中央政治局を代表して提出した『趙紫陽同志が反党、反社会主義の動乱の中で犯した誤りに関する報告』を審議し、可決した。また、江沢民を総書記に選んだ。

  五中全会は、1989年11月6日から9日まで北京で開かれた。会議はケ小平が中央軍事委員会主席の職務を辞去することに同意し、江沢民を中央軍事委主席に選んだ。

            【第14回党大会】

  1992年10月12日から18日まで北京で開催された。大会に出席した正式代表は2000人で、5100万以上党員を代表していた。

  大会は『党規約の修正』を決議し、中国の特色のある社会主義を建設する理論と党の基本路線を党規約に書き込んだ。

  一中全会では、総書記に江沢民、政治局常務委員に江沢民、李鵬、喬石、李瑞環、朱鎔基、劉華清、胡錦涛を選んだ。

  五中全会は1995年9月25日から28日まで北京で開かれた。会議は『国民経済と社会発展"95"計画と2010年の長期目標に関する党中央の提案』を可決した。また会議は、中央紀律検査委員会の『陳希同同志の問題に関する審査報告』を審議し、可決し、彼の政治局委員、中央委員の職務を取り消すことを決定して、法律に則って、全国人民代表大会代表の職務を罷免し、引き続き審査を行うことを提案した。

            【第15回党大会】

  1997年9月12日から18日まで北京で開催された。大会に出席した正式代表は2074人。5900万以上の党員を代表していた。大会は、『党規約修正案』を可決した。これによってケ小平理論を党の指導思想として確立し、党規約に書き入れ、党がマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、ケ小平理論をその行動指針とすることを明確に規定した。

  一中全会では、総書記に江沢民、政治局常務委員に江沢民、李鵬、朱鎔基、李瑞環、胡錦涛、尉健行、李嵐清を選んだ。

  三中全会は1998年10月12日から14日まで北京で開かれた。会議は、20年の農村改革の得た巨大な成果と創造的な豊富な経験を高く評価し、2010年までに、中国的特色のある社会主義の新農村を建設する奮闘目標を提起し、この目標の実現を必ず堅持するという方針を確定した。