漢詩望郷(30)

『唐詩三百首』を読もう(22) 杜甫を読む(1)

                     棚橋篁峰

 今回から杜甫を読みます。杜甫は李白と共に漢詩世界の双壁として後世、「詩聖」と呼ばれ、その詩風は「詩史」と称されています。私自身も杜甫の詩に魅了されて漢詩世界に入ったといっても過言ではありません。彼の人生に刻まれた作品の数々は、漢詩を鑑賞するための基本といっていいでしょう。しかし、彼の詩は易しくはありません。本当に理解し、鑑賞するためには、杜甫その人を知らなければならないのです。今回は、作品の鑑賞に主眼を置くのではなく、彼の人となりを考えてみたいのです。

 杜甫(712〜770)襄陽(湖北省襄樊市)の人。字は子美。号は少陵。先祖に晋の名将で、『春秋左氏伝』の注釈家として名高い杜預、祖父に初唐の宮廷詩人杜審言がいます。20歳ごろから10年間、河南・山東・江蘇・浙江等を歴遊。開元23年(735)進士を受け落第。30歳ごろ結婚。洛陽に住み、三男二女を得ました。天宝3年(744)33歳で李白・高適と山東・河南を放浪。天宝5年(746)長安に出ます。翌6年(747)朝廷の試験を受けますが、宰相李林甫は「野に遺賢無し」として受験者全員を落第としたため仕官できませんでした。天宝14年(755)安禄山の乱に遭遇。霊武(甘粛省)で即位した粛宗のもとに行こうとして賊に捕らえられ、長安に軟禁。至徳2年(757)長安を脱出。鳳翔の粛宗のもとにたどり着き、左拾遺の官を得ました。乾元元年(758)敗将房 を弁護して華州(陝西省)に左遷され、翌年飢饉のため官を捨てて家族と秦州(甘粛省天水)、同谷(甘粛省成県)を経て成都(四川省)に向かいました。成都で友人である剣南節度使、厳武の援助で、上元元年(760)浣花渓のほとりに草堂を建てると同時に、節度参謀・検校工部員外郎の官につきます。永泰元年(765)厳武が死ぬと成都を去り長江を下って、忠州・雲安を経てキ州(重慶市奉節県)に滞在、大歴3年(768)キ州を去って岳州(湖南省岳陽市)に移ります。大歴四年(769)洞庭湖を渡り聿江・湘江を遡り潭州・衡州(湖南省)をめぐって、大歴5年(770)伝説では、舟中でひっそりと生涯を閉じたのです。

 彼の人生は不遇のうちに終わりました。多くの杜甫研究家は「杜甫は生涯憂う」といい、悲劇の詩人だというのです。私はそんな杜甫の人生の道を同じように歩き、意境を知りたいと思いました。10年以上の歳月を費やし、彼の全足跡を訪ねました。その旅は現在もなお苦しく長い旅でした。河南省鞏義市を出発して、山東・泰山・江蘇・浙江・洛陽・長安(西安)・蒲城・鳳翔・天水・成県・蜀の桟道・広元・綿陽・成都・重慶・雲陽・奉節・三峡・岳陽・衡陽を巡りました。彼の詩を読む限り、辛く長い旅路であったと思います。しかし、同時にそのような流浪の人生での悲惨な生活を背景として、詩を読みながら進んだ旅において、彼の人々に対する限りない愛情を感ずることができたのです。若き日の志を「会ず当に絶頂を凌ぎ、一覧して衆山を小とすべし」(望嶽)と詠んだ彼が、生涯手にすることが無かったにもかかわらず、自分自身に対するより以上に社会の不公正に目を向けています。

 当時の社会は、自らの理想を律令官僚となって天下に行うことが大方の人々の考えだったはずです。杜甫も、その道を目指しました。時に役職は得るのですが、杜甫の望み通りにはなりません。都で望みを失った杜甫は、知り合いを訪ねて旅に出ます。一時の安息を得ることはあっても安住の地は無いのです。病を得、旅の苦難はやがて杜甫の精神を萎えさせていきます。ついに、絶望の淵に涙を流します。「軒に憑りて涕泗流る」(登岳陽楼)杜甫が残したものは、後世、詩聖と讃えられる詩だけでした。

 私は、次回から、杜甫の青雲の志と彼の絶望を探ってみたいと思います。一つ言えることは、彼は真面目すぎたのかも知れません。しかし、愚直に過ぎる彼の生き方は、皇帝や英雄よりも、今日まで私たちの心に訴えてくるものがあります。その叫び声が千年の時を越えて聞こえて来るのは、漢詩だからだと思います。