胡同描いた心の交流
――画家・今岡琴子さん一行を案内して

    文 写真・中国社会科学院文学研究所 李兆忠

 今岡さん一行は、「北京市海淀区・東京都練馬区友好交流水墨画展」(2001年10月31日〜11月7日)に参加するため、北京にやって来た。今岡さんは日本側の代表である。海淀区と練馬区は、1992年に友好姉妹区となり、すでに10年の友好交流の歴史を持つ。これまでに文化、芸術、体育などの諸領域にわたる活発な交流が行われ、協力関係が築かれてきた。今回の水墨画展は、それらの活動の一つである。

 水墨画展は大成功だった。開幕式は盛大で熱気にあふれ、多くの観衆が見守る中、両国の画家たちが交流会を開いた。

天壇公園にて(左から4
人目が代表の今岡さん)

 ところが、今岡さんやお弟子さんたちにとっての最大の収穫は、水墨画展に出席したことではなく、歴史ある北京の街が、彼女たちに与えた震撼や感動だったという。わずか三日間の滞在だったが、彼女たちは開幕式に出席し、水墨画展を参観し、中国人画家と交流し、頤和園、什刹海、天壇公園、景山公園を見学した。さらに紫禁城の外周をぐるっと一周歩き、故宮のもう一つの壮観さと神秘さを味わった。彼女たちは、絵筆で自分の思いを描き、興奮のうちに帰国したようだった。今岡さんは東京に戻ったあと、電話でこう教えてくれた。「成田空港に着いて、東京へ向かう電車の中でも、みんなの話題は北京のことばかり。いつまでも興奮が冷めなかった」

 正直に言えば、北京は観光都市としては、まだまだ不十分なところが多い。しかし、今岡さん一行が、このような好印象を持ってくれたのは、芸術家の心があったからだろう。芸術家の眼で見れば、北京は魅力にあふれている。日本の偉大な芸術家である梅原竜三郎先生や東山魁夷先生らは、かつてそのすぐれた妙筆で北京を描いた。時代とともに北京は変わり、特にこの2、30年間の「現代化」の試練を通して、大きく姿を変えた。いまの北京を目にすれば、恐らく違った味わいがあるだろう。その上、今回足を運んだ「画家たち」は、今岡さんを除けばアマチュアで、本来は専業主婦のため、大師級の日本人画家と同じ土俵では比較できない。しかし、彼女たちのような「庶民画家」が北京を描くようになったことこそ、とても有意義な出来事だと思う。

什刹海の自由市場にて

 11月上旬の北京の気温はすでに低い。しかも彼女たちが訪問していた数日間は、ちょうど冷気が流れ込んでいた時期で、特に寒かった。一行の中で、一番の年長者は古稀を越え、若い方でも50歳に近かった。どなたも体が小さく、それほど丈夫には見えないのに、寒さの中で冷たい地べたにひざまずくか腰掛けるかして、誰もが1、2時間も一心に描き続けた。もし美や芸術への追求心がなければ、できかねることだろう。

 本心を言えば、日本のおばあさんやおばさんを什刹海の横町に連れて行くときには、不安がなかったわけではない。なぜなら、老舎の小説『四世同堂』に描かれているような、日本軍による中国侵略の際の惨めな記憶は、いまでも北京人の心に深く刻まれているため、不愉快なことが起こらないとは言い切れなかったからだ。幸い、この一行の到来に、横町の人たちの反応は穏やかで、好意的なものだった。もちろん最初は、少なからず警戒心を持っていたが、彼女たちが絵を描くために来たのだと知ると、最初の心配はどこへやら、今度は自分たちから進んで「モデル」をするようになった。北京の人たちは遊び心が強く、朝だというのに、四合院の門前に四方形のテーブルを運び出してきて、日向ぼっこしながらマージャンをして、遠い日本からやってきた画家たちに創作の素材を提供した。

 もともと人物画を得意とし、「文楽」の人物の描き手として有名な今岡さんだけでなく、お弟子さんの中にも人物画を好む人がいるのだから、こんな絶好の機会を見逃すわけがない。中国語のできない今岡さんは、筆を握る前に「おはよう」と日本語であいさつし、住民たちに会釈をして敬意を示した。それが黙認されたとみると、心を込めて休まずに二時間も描き続けた。住民たちのゆったりとした表情と姿が、画家たちのキャンバスに跳び込んだ。絵が出来上がると、「モデル」たちは、似ている、似ていないと、あれこれ批評し合った。

 今でもはっきりと覚えている。あれは十一年前のある春の午後のことだった。

 私はまだ日本に足を踏み入れたばかりで、右も左もわからず、言葉も通じなかった。偶然にも東京・池袋にある安田ビルの前を通ったとき、水墨画展の広告に引きつけられ、三階の展示ホールに足を運んだ。そして、そこで画家・今岡琴子さんのすばらしい絵と出合った。

 当時は、あの偶然の「出合い」が、のちの今岡さんとの付き合いの機縁になろうとは思いもしなかった。しかも、あれから11年後に、今岡さんとそのお弟子さんたちのガイドとして、北京の横町などを案内することになるとは、到底思い至らなかった。

北京の横丁でのスケッチ

 芸術に国境はないが、無形の文化による制約があるため、国際的な文化・芸術の交流にはおもしろい「食い違い」現象が現れる。今岡さん一行をスケッチに適した場所に案内してみて、中国人画家が間違いなく感動する景色に、日本人画家は興味を示さず、それぞれ自分の発見と感覚を大切にしていることに気付いた。

 什刹海の前海では、私が写生に理想的だと思った場所、すなわち手前に柳、背景に湖、その向こうには鐘楼が見える場所に一行を案内した。しかし、意外にも彼女たちからは何の反応もなく、今岡さんの「さあ、始めましょう」という掛け声で、お弟子さんたちは四散し、自分の題材を探して描き始めた。四合院の表門を描く人、道端にあるリヤカーを描く人、歴史を感じさせる建物を描く人など様々だった。中には、部屋の軒下にある鉄の獅子を描いている人もいた。目をこらすと、獅子の胸元に子供の獅子がうずくまっているのが見えて面白かった。

 私は、日本の芸術家の小さなところに注目し、細部を重視する芸術感覚は、北京の雄大で壮麗な宮殿建築とは距離があるのではないだろうかと、天壇公園への路上、心配になった。しかし目的地に着いてすぐ、それは余計な心配だったと気付いた。彼女たちはやはりマイペースで、自分の感覚にしたがい、一心不乱に屋根やアーチ門、ちょうちんなどを選んで描いていた。

 故宮北門の向かいにある景山公園の頂上に着いたときには、もう黄昏時で、壮麗な紫禁城を眼下に収めた。今岡さんらは、目の前の壮観そのものの景色に感動し、「すてき、これこそ東山魁夷先生の世界だわ」「平山郁夫先生の世界ね」と賛嘆した。

 いわゆる国際文化・芸術の交流とは、お互いの眼で観察、発見し、その向上につなげることだと思う。日本人芸術家たちの北京の美に対する独特の発見は、ちょうど中国人芸術家が思い至らない空白と不足を補うものだろう。今岡さんは、「北京はどんなものも落ち着いて見え、壮観そのもの。このような雰囲気を感じられたことは、私たち日本人画家にとって意義のあることです。いままで、中国人は闊達で小さな物事にはこだわらないと聞いていましたが、ようやく身をもって体験できました」と感慨深げに語ってくれた。

 数日間の横丁めぐり、中国漫才や京劇の観賞、北京のお菓子を味わうことなどを通して、彼女たちは、北京の古い文化、伝統が、依然として力強く保たれているという、一致した結論にたどり着いたようだ。

 飛躍的に進む「現代化」は、人々に物質的な豊かさをもたらすと同時に、詩的な住環境を破壊し、人々の芸術への想像力を弱めてしまった。先に工業化社会に入った日本は、この方面ですでに多くの経験と教訓を得た。しかし北京は、歴史的文化都市として、いままさに「現代化」の試練にさらされている。今岡さんらの今回の北京訪問は、ある意味では、自分たちのルーツ探しの意味もあったのかもしれない。今岡さんがスケッチの最中に言った、「いま描いた景観が、次に来たときにはもうないかもしれないのよね」という言葉が、私の心を強く打った。この短い言葉の中に、私は、彼女が持つ広い心と強い芸術的使命感を感じた。

 芸術という言語で人類をつなぎ、種族の壁を取り除くことは、これからの国際文化交流が歩むべき、最も理想的な道ではないだろうか。こんな交流が自発的、普遍的に民衆の中から生まれるとき、人類の平和には、さらに希望が広がるに違いない。