宇宙の夢で結ばれた二人

        中国科学普及研究所研究員 李 元

「岩崎一彰宇宙美術館」の前で記念撮影をする筆者(左)と岩崎さん

 2001年3月下旬、桜咲く美しい季節に、著名なスペース・アーティスト(宇宙画画家)である岩崎一彰さんと東京で初めてお会いし、20年近くにわたる友情を語り合った。岩崎さんは、日本だけでなく世界的にも著名なスペース・アーティストだ。

 20年ほど前、書簡での交流をはじめ、以来、お互いの理解と友情を深めてきたが、お会いするチャンスはなかなかめぐって来なかった。しかし私たちには縁があるのだろう。21世紀になってようやく夢が実現した。彼とお会いできたことは、一生忘れられない幸せな思い出となっている。

    ボンステル画伯の影響下で育った私たち

 20歳にも満たなかった1944年、私はすでに天文学に興味を持ち始めていた。そんなある日、重慶の露天の本屋で、偶然にも同年5月29日発行のアメリカ雑誌『ライフ』を手にした。その紙面にあったボンステル画伯が描いた組絵は、土星の諸衛星から見た土星の壮観な様子を表現していた。その美しく、正確で、魅力的な宇宙に心を奪われ、神秘的な宇宙への憧れを募らせた。その雑誌は、当時の私にとってはかなり高価だったが、それでも手持ちのお金を全部はたいて買ってしまった。

 『ライフ』で見た絵、それこそが宇宙画(ボンステル画伯のものは「油彩天体画」、岩崎さんのものは「宇宙細密画」と呼ばれる)だった。

 宇宙美術は天文美術とも呼ばれ、1930年代に米国美術界の巨匠・ボンステル画伯によって創始された。宇宙画は、スペース・アーティストが科学研究の資料に基づき、美術創作の手法と豊富な想像力により、現在の人類がいまだ観測または撮影できない天文現象を描いたものである。芸術的想像力のたまものであると同時に、科学的予見でもある。実際、人類が初めて月面着陸に成功した宇宙船は、ボンステル画伯の『月への飛行』という宇宙画に描かれた宇宙船とよく似ている。このような事例は決して少なくない。

 私は、『ライフ』の宇宙画を見たことで、天文学に一生を捧げようと決心したが、これらの宇宙画は、日本でも14歳の少年の心を引きつけた。その少年こそが、岩崎一彰さんである。(岩崎さんは1994年に改名。当時の名前は岩崎賀都彰)

岩崎さんは1935年、中国・大連に生まれ、10歳の時に帰国、大阪に定住した。幼い頃から天文と絵を好み、ボンステル画伯の宇宙画に出合ってからは、宇宙美術にのめり込むようになった。そして長年の追求と努力で、ついに優秀なスペース・アーティストとして認められるようになった。

 著名な天文学者であるカール・セーガンさんは、岩崎さんの宇宙美術作品集にこう寄せている。「私は岩崎氏の作品を何度も見たが、見るたびに心の底から感動してしまう。しかもその度に、彼の描いたものが真に迫っていることを再発見する」

 私と岩崎さんが初志をつらぬく奮闘の道を進んだのには、二つの理由がある。一つは、ともにボンステル画伯の影響を受けたからであり、もう一つは、「より多くの人に宇宙の秘密に興味を持ってほしい、美しい天体世界を知ってほしい、天体の美しさを楽しんでほしい」という同じ理想を持っているからである。

        すばらしい宇宙美術展

 1948年、私は南京紫金山天文台の採用試験に合格し、関連業務を担当すると同時に、中国初の天文館設立のための資料収集に着手した。54年には、北京で北京天文館の設立準備を進め、天文知識の普及活動に力を入れた。57年、北京天文館落成後、初の宇宙パノラマ番組『宇宙旅行』のシナリオと解説を担当した。また、四四年以降集めてきた約20枚の宇宙美術の複製品を館内に展示した。当時はちょうど宇宙ブームだったため、人気を集めた。私は宇宙美術のすばらしさを知っているため、「天文を普及させるもっとも良い方法は、青少年にできるだけ多くの宇宙美術を見せることである」というボンステル画伯の考えに大賛成だ。

 私は80年代はじめ、アメリカや日本の宇宙美術界の人々と学術交流を始め、岩崎さんとも手紙のやり取りを開始した。初めて岩崎さんの画集『宇宙と自然』のすばらしい作品を目にした時には、思わず驚嘆してしまった。その頃ちょうど、『科学普及創作』誌に宇宙美術を紹介する「世界宇宙美術巡礼」という長文を執筆中だったため、とっさの思いで「日本の宇宙美術」の一節を追加し、岩崎さんの作品「水星にて」を紹介した。

 83年、岩崎さんとボンステル画伯の宇宙画共同展が、東京など日本各地で開催され、終了後に岩崎さんは、展示作品の複製品をたくさん送ってくれた。そこで私は、中国でも宇宙画展を開こうという考えを持つようになった。84年、アメリカと日本から送られてきた資料、それに私個人が収集したものを合わせ、画展の機は熟し、北京、上海などの十数都市で「宇宙からの呼びかけ」という画展を開催した。反響は大きく、画展を見学したある青年は、その興奮した気持ちをつづった手紙をくれた。しかも、彼はのちにスペース・アーティストになった。

 この画展は三年以上も続き、参観者は延べ二百万人以上に達した。中国のスペース・アーティスト第一世代の誕生に大きな影響を与えたと言える。

 88年には、岩崎さんの出生地・大連で、特に彼の宇宙画展を開催した。岩崎さんは深く感動し、こんなお手紙をくださった。「私の作品を中国の皆さんに紹介してくださることについて、非常にうれしく、まことに光栄に思います。この画展により、日中両国の人々の相互理解が深まることを心からお祈りします」

 岩崎さんはこれまで、多くの作品を中国に寄贈してくださった。それらは現在、北京天文台と北京天文館に所蔵されている。

         桜に囲まれた美術館

 1998年、国際天文学連合会の批准により、日本人科学者の発見した国際コード6741号の小惑星が、私の名前である「李元」と命名された。日本人科学者が発見した小惑星に、中国人の名前が使われたのは初めてのことだった。国際天文学連合会からの各国関係部門への通知には、次のように書かれていた。「李元(1925年生まれ)に敬意を表し、こう命名した。彼は中華人民共和国の天文学普及活動家である。57年に設立された北京天文館の準備過程で重要な役割を果たし、中国の天文館事業の先頭に立って来た。天文学関連書を含む50種類の科学書を編集、翻訳したほか、中国国内外の科学普及のための出版事業に大きな貢献をしてきた。(後略)」

岩崎さんの宇宙画『木星衛星イオの景観』

 同じ年、岩崎さんは、静岡県伊東市に世界初の宇宙美術館「岩崎一彰宇宙美術館」を設立した。また、国際天文学連合会から、彼の宇宙美術における大きな貢献を表彰するため、7122号の小惑星に彼の名前を冠するという栄誉を受けた。

 私たち二人は、お互いにお祝いの手紙を交換したが、まだ会うチャンスには恵まれなかった。

 2001年3月下旬、黒竜江省科学技術館代表団とともに日本を訪問し、ついに岩崎さんとの対面が実現した。

岩崎さんが自分で車を運転し、ホテルまで会いに来てくださった時には本当に感動した。彼は美術館の出版物をくださり、私はお返しに、「宇宙大観」の墨書と、『中国航天報』のグラビアページとして編集された米日中の三国のスペース・アーティストが描いた宇宙画『宇宙画大集合』を贈った。お互いの贈り物には、共通の趣味、共通の事業、それに「20年間の交流への思い」が刻まれている。

 お会いしたのは桜の開花の頃だった。岩崎さんは、私を彼の宇宙美術館に招待してくださり、東京から約150余キロも離れた静岡県伊東市まで車を飛ばし、私たちは海辺の高台の絶景の地にある宇宙美術館を訪ねた。展示ホールには、岩崎さんの手による数々のすばらしい作品が並んでいた。それらはすべて原画だった。岩崎さんとは言葉は通じないが、心が通じているという何とも言えない親密感を味わった。

 岩崎さんは私のためにベートーベンの「月光」を演奏してくれた。200年前にベートーベンがこの名曲を作曲した時、月光は詩情や絵画の美しい境地を代表していただけだったが、人類はすでに月面着陸に成功し、岩崎さんの月をテーマにしたアートは、月の美や月面世界の本来の姿を私たちに示してくれている。そう思うと、演奏はさらに感慨深く聞こえた。

 お別れの時、中国での再会を約束した。いまの中国と彼の生まれ故郷・大連の驚くべき変化を見てもらいたいと思う。(写真提供・李元)

《プロフィール》
 中国科学普及研究所研究員、天文学者。1925年山西省太原市生まれ。天文学での貢献を称え、6741号の小惑星には彼の名前がつけられている。