北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第14話)
マルコ・ポーロと鐘楼の鐘――元

                    文・李順然 写真・楊振生

 

元の大都の城壁には門が十一あった
仏教と道教の守護神、ナタにあやかったという
大都の鐘楼の鐘は市民に時を告げた
夜、百八つの鐘で街は眠りに就いたという
大都の妙応寺に白い高い塔が建った
遠くネパールから来た工匠が造ったという
大都に一人のイタリア人が住んでいた
『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロである

 

三頭六臂両足

 元の大都(現在の北京)を囲む城壁には、11の門が設けられていました。全長28キロの四角い形をした城壁には、南側中央に麗正門があり、現在の天安門よりいくらか南に位置していました。その東西に文明門、順承門があり、この南側の三門に加えて城壁の東側に三門、西側に三門、北側に二門が設けられていたのです。

 しかしこれは、対称性が重んじられる中国の伝統からいえば、南が三門、北が二門というのは、ちょっと異例です。これには、大都建設の主役であった僧侶出身の劉秉忠の思想が反映されていると伝えられています。劉秉忠は仏教の四天王、毘沙門天の子であるトト゚クの姿を大都の建設に取り入れたというのです。

 伝説上の三頭六臂両足というトト゚クの姿にもとづいて、南の三門が三頭、東西の六門は六臂(六本の手)、北の二門が両足というわけです。

 毘沙門天は戦勝の神で、その子のナタには道教的要素も加わり、毘沙門天よりも強かったと伝えられています。仏教プラス道教プラス儒教の思想の持ち主だった劉秉忠は、ナタを大都の守り神にしようとしたのでしょう。

 ところで、大都の城壁は「土城」といわれるように、そのほとんどが土を固めたものだったので、大雨が降るとあちこちで土砂が流出し、城壁が崩れ、大都の役所はその補修に頭を悩ませていたようです。『元史』には、世宗フビライの至元20年(1283年)から至元30年(1293年)の10年間に、城壁補修の大工事が8回もおこなわれたと記されています。

 この元の土の城壁の遺跡が長年、風雨にさらされて、いまもその姿を残している所があります。後に明の都市計画で切り捨てられた大都の北部、現在の朝陽区桜花園東街の中日友好病院の北から海淀区土城路あたりまで東西に続く一帯で、一部は公園になっています。あまり手が加えられていない遺跡として、文字通り、元の土の匂い、ジンギスカン、フビライの汗の匂いが感じられる所です。タクシーの運転手さんに「元土城遺跡」と書いて見せれば連れていってくれるでしょう。

マルコ・ポーロと鐘楼の鐘

鐘楼。元の時代から、北京の人々に時を告ぎてきた。

 元の大都には、ヨーロッパからも外国人が訪れています。その一人がイタリア・ベニス生まれのマルコ・ポーロ(1254〜1324年)でした。フビライの側近として重用され、元に17年もとどまったマルコ・ポーロは、帰国してから中国などでの見聞を綴った『東方見聞録』を著しています。

 『東方見聞録』にはいくらか誇張もありますが、長く暮らした北京についての記述はとても生き生きとしています。そのなかに「都の中央にとても高い建物があり、そこに掛けられた大きな鐘が毎日撞かれる。夜の三つ目の鐘が鳴り終わると、だれも街に出ることはできない」というくだりがあります。

 マルコ・ポーロが「高い建物」と書いているのは元の至元9年(1272年)に建てられた鐘楼のことで、ここで撞かれる鐘は南隣りの鼓楼で打たれる太鼓とともに、市民に時を知らせる時報の役目をはたしていました。マルコ・ポーロが「夜の三つ目の鐘」と書いているのは現在の夜八時に撞かれる鐘で、当時の制度ではこの鐘が鳴り終わってから翌日の朝六時に最初の鐘が撞かれるまで、街は通行禁止になっていました。 

 語り伝えでは鐘楼の夜三つ目の時を告げる鐘は「早く十八、ゆっくり十八、それを三遍繰り返してあわせて百八つ」といわれ、百八つ撞かれていたようです。除夜の鐘が1年の百八つの煩悩を払うのと同じように、一日の百八つの煩悩を払うという意味があったのでしょうか。

 元代の鐘楼は明代に改築され、また火事に遭ったりして、現在残っているのは清の乾隆10年(1745年)に改築されたものです。また鼓楼も同じ清の嘉慶5年(1800年)のもので、ともにその高さは50メートル近くあります。

 地下鉄環状線の「鼓楼大街」駅で降りて南に10分ほど歩くと、その高く大きな姿が緑の木々のあいだに現れます。この辺はまだ高い建物も少なく、森の都の面影を留めていますが、しばしここにたたずんでいると、夜三つ目の百八つの鐘を聞きながら一日を終えて、安らかな眠りにつく元の時代の大都の人たちの姿が脳裏をかすめます。

キリスト教と蒸留酒

 フビライがマルコ・ポーロを側近として重用したことからもうかがえますが、元の皇帝は外国人に対しても、外国の文化に対しても寛容であり、開放的でした。そこで、都である大都にはいろいろの国から、さまざまな文化が集まってきました。

 キリスト教が中国に入ってきたのは唐代で、唐の太宗、李世民の貞観9年(635年)にペルシアからネストリウス派のキリスト教が、都である長安(現在の西安)に伝えられた、という記録があります。「景教」とよばれ、フビライの母親もこの派の信徒だったという説があります。

 カトリックが中国に入ってきたのは、下って元の時代でした。イタリアのフランシスコ会の修道士モンテ・コルビィノ(1247〜1328年)が、3年にわたる大旅行のすえ、至元31年(1294年)に大都に着きました。そして、フビライの孫にあたる時の皇帝、成宗ティムール(1265〜1307年)に、ローマ教皇からの書簡を奉呈して、カトリック伝道を始めたのです。モンテ・コルビィノは大都に教会を三つ建て、6000人に洗礼を施し、新約聖書の蒙古語訳を出したと史書は書いています。

 キリスト教ばかりでなく、蒸留酒が中国に伝えられたのも元の時代で、アラビアから渡ってきたようです。酒も大事な文化ですので触れておきましょう。

 明の名医、李時珍(1518〜1593年)が書いた『本草綱目』という医薬書に「焼酒(蒸留酒)は元代に始まる。……京城(北京)の高粱による焼酒は他所に優る」というくだりがあります。アルコール度の高い北京の庶民の名酒「紅星二鍋頭」のルーツは、『本草綱目』に書かれているように、どうやら元代の北京だったようです。

 元代の北京では「阿剌吉」とよばれるアラビア伝来の蒸留酒がとても流行っていました。「阿剌吉」の原語はアラビア語で「汗をかく」といった意味で、蒸留酒を造るときの水滴の形からこう呼ばれるようになったそうです。

妙応寺の白塔


高くそびえる妙応寺の白塔

 北京の繁華街、西四の近くにチベット風の白い塔があります。高さ51メートル、このあたりもあまり高い建物がないので、かなり遠くからでもこの白塔を目にすることができます。地下鉄環状線の「阜成門」駅から東へ5、6分のところですが、この白塔も元代の「舶来品」で、外国人の手で建てられたものです。至元8年(1271年)の元の建国と同時にフビライは勅令を出し、ネパールから設計師アニゴと工匠80人を招いて、8年がかりでこの白塔を建てたと史書は書いています。

 ところで、元代の北京は地震の多発期だったようで、元史研究の大家、陳高華氏の『大都大事年表』のページをざっとめくってみただけでも、元が都を大都に置いてから至正28年(1368年)に滅びるまでの百年たらずの間に、11回も地震に見舞われています。この11回はいずれも白塔ができてからで、なかでも震度の大きかったのは皇慶2年(1313年)6月と後至元3年(1337年)八月の地震です。

 皇慶2年の地震については、范榜(1272〜1330年)という皇帝の詔勅などを作成する翰林院の役人が「大地作る」という詩を残しています。

 二年六月己未朔
 京城五更大地作る 
 臥したる者は衣を顛まにして
   起つこと吹かるるが若く
 立ちたる者は庭を環りて
   眩みて相愕く

 地震におそれおののく当時の人たちの様子が手にとるようにうかがえる描写ですが、妙応寺の白塔はこの皇慶2年の地震、そしてその後のたび重なる地震や火災、戦乱などにも耐えて、北京の庶民の守り神的存在となり、現在もやさしく市民を見守っているのです。北京の人たちは妙応寺を白塔寺と呼び親しみ続けてきました。いまでも妙応寺の前のバス停は「白塔寺」となっています。

鼓楼。北京を南北に貫く中軸線の終点に当たる鼓楼大街にある

 余談ですが、たび重なる地震に耐えてきたこの白塔も、世界を驚かした1976年のマグネチュード7・8の唐山大地震のときには、その余波を受け、上部に大きなヒビが入りした。

 ところが、瓢箪からでた駒とでもいうのでしょうか、このひびの裂け目から、なんとトラック一台分の『大蔵経』724箱や仏舎利、仏像など貴重な文物が見つかり、話題になりました。その昔、全国から7万人の僧侶が集まってフビライの国葬がおこなわれた妙応寺の広い境内には、こうした文物を展示している博物館も設けられています。

 元代の大都を訪れ、妙応寺の白塔を目にし、鐘楼の鐘の音を聞いた日本人もいたようです。中国語にも翻訳されている木宮泰彦氏の力作『日華文化交流史』には、元代に中国を訪れた200余人の日本の僧侶の名があげられています。そのうち、東州至道、古源邵元、祖庭芳の3人は北京入りしています。

元の「土城」。土を打ち固めて造られた

 古源邵元は泰定4年(1327年)に入元し、20年ほど中国各地の寺を廻って帰国していますが、わたしは数年前に少林寺拳法発祥の地として知られる河南省の少林寺の塔林で、古源邵元の筆による銘文が刻まれた塔墓を目にしました。『昭公和尚塔』で、とても見事な文字が印象に残っています。大都を訪れた古源邵元は、宮中でおこなわれた読経にも名を列ねたそうです。

 東州至道は大都の大覚寺にいた、と史書は記しています。迎えに来た祖庭芳の求めを断り、日本に帰っていません。多分、大覚寺で息を引きとったのでしょう。国と国との関係が芳しくなかった元代の北京でも、きっといろいろな交流のエピソードがあったことでしょう。

 次回は、いまでは北京の名物料理になっているカオ羊肉(羊の焼肉)やショアン羊肉(羊のシャブシャブ)のルーツを、元代にまでさかのぼって探ってみようと思っています。

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。