北京の旅・暮らしを楽しくする史話

わたしの北京50万年(第17話)
城門をめぐる――明

                    文・李順然 写真・楊振生

 

北京の地下鉄環状線には
十八の駅がある
そのうちの十一の駅名が
門という字で終わっている
宣武門 和平門 前門 崇文門……
北京の地下鉄環状線は
明・清の城壁の地下を通っている
城門のあった所が駅になっているのだ

 

地下鉄環状線

徳勝門は、明の正統4年(1439年)に建てられた。軍がこの門から出征することは、作戦が緒戦で勝利することを象徴していると信じられた。
 北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧市内をぐるりと回っている市民の便利な足です。

 この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。

 復興門駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、宣武門、和平門、前門、崇文門、建国門、朝陽門、東直門、安定門、西直門、阜成門、そして復興門駅にもどってきます。

 なぜ、こうも門が続くのか。そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。たいへん残念なことに、1950年代に、城壁と城門のほとんどが撤去されてしまったのですが、その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、いまも脈々と生き続けているのです。

 城門、城壁が姿を消したと書きましたが、いまもありし日の面影を目にすることができる所があります。地下鉄環状線の前門駅で降りれば前門(正陽門の俗称)を、積水潭駅で降りれば徳勝門を、建国門駅で降りれば東便門の角楼を目にすることができるのです。このほか、復興門駅近くでも、明代の城壁の跡を見ることができます。

 わたしのお気に入りは、東便門の角楼です。明、清の北京の城壁の角にあった四つの角楼のうち残っている唯一のもので、東南角楼というその名のごとく、北京内城の東南の角にそそり立つ四層の、高さ29メートルある中国風の砦です。三層まで登ることができますが、見晴らしが素晴らしく、144ある大きな窓(矢狭間)を吹き抜ける涼しい風が快適でした。

 角楼の横にはいくらか城壁も残っていて、前門とともに国の重要文化財に指定されています。ちなみに、角楼は明の正統元年(1436年)に築かれたものです。

 角楼は北京の街の美観に色を添えただけでなく、都を守る砦の役割を持っていました。現に、清の光緒26年(1900年)に、イギリス、アメリカ、日本、フランス……などの八カ国連合軍が北京に侵入したときも、この東南角楼が北京防衛の砦となり、ここで激戦が行われ、連合軍の放った砲弾の傷あとがいまも角楼の柱に生々しく残っています。

崇文門は酒門

天壇の祈念殿は、天壇の北部にあり、皇帝は毎年の正月、五穀豊穣を祈るためここに登った(撮影・魯忠民)

 元の都であった大都(北京)を攻め落とした明が、最初に手をつけたのは城壁の補強工事でした。北に逃れた元の捲土重来を恐れたのです。

 まず、北の城壁を2キロほど後退させて、新しい城壁を築きました。元の時代の城壁は土を固めたものでしたが、これを煉瓦を積んだものに変えていきました。現在も北京のところどころにのこっている城門や城壁は、みな明の時代のものです。

 明代には、城壁の南の中央に正陽門(前門)、その左右に崇文門、宣武門が設けられ、城壁の北に安定門、徳勝門が、東に東直門、朝陽門が、西に西直門、阜成門が設けられていました。地下鉄環状線の駅名にある建国門や復興門は明代にはなく、その後、交通の便を考え、城壁に穴をあけて造った門です。

 明代には、こうした城門はそれぞれ役割の分担が決まっていました。正陽門は正に北京の表玄関で、皇帝や皇族たちが天壇に参拝に行ったり、地方に視察に出かけたり、郊外に遊びに行ったりする時に使う、いわば「御門」でした。

 また、崇文門は南郊外の酒どころから酒を運び込む門でした。大運河を使って南方から運ばれてきたお米を運び込んだのは朝陽門、木材を運び込んだのは東直門です。

 このほか、安定門は市民の糞尿を郊外の農村に運びだす門、徳勝門は軍用の門、西直門は西郊外の玉泉山から皇室用の飲料水を運び込む門、阜成門は西郊外の門頭溝炭鉱から石炭を運び込む門、宣武門は刑場に向かう死刑囚が通る門でした。

正陽門(現在の前門)も、明の正統4年に建てられた。北京城の正門であり、官僚たちはこの門を通って朝廷に参内し、退出した。また、葬列がここを通るのは禁じられていた

 清代になってからも、こうした門の役割はあまり変わらなかったようです。北京を舞台にした浅田次郎さんの小説『珍妃の井戸』(講談社)で、清末の啓蒙思想家の譚嗣同(1865〜1898年)が清朝政府に捕えられ、菜市口で処刑されるくだりがありますが、譚嗣同も宣武門を出て刑場に向かっています。

 『珍妃の井戸』のこのくだりでは、宣武門、正陽門、箭楼、菜市口、広安門……など、この一帯の地名が立て続けに出てきます。譚嗣同が住んでいた瀏陽会館にも触れていますが、瀏陽会館はいまでは「譚嗣同故居」として、北京市の文物保護リストに載っています。宣武区北半截胡同41号です。

 いずれにしろ、地下鉄を降りて、それぞれの駅名や地名にちなんだ歴史の故事を思いだしながら、東に西に、南に北に、北京の街を散歩してみるのも楽しいものです。北京の地名には、北京っ子の心が滲んでいるのです。

天街――天安門広場

 北京市を東西に貫く地下鉄一号線にも、天安門東駅、天安門西駅など、門の付く駅があります。天安門東駅か天安門西駅で降りて地上に出ると、北側には天安門が、そして南側にはギネスブックにも世界一広い広場と記されている44万平方メートルの天安門広場が広がります。

 明、清の時代にも天安門の前には広場はありましたが、こじんまりとした皇室専用の丁字型の小さな広場で、皇室のいろいろの儀式が行われていました。例えば、皇帝の即位や皇后の冊立のときには、天安門の楼閣の上の中央から、即位や冊立を告げる詔書を、木で造った金色の鳳にくわえさせて下に降ろします。これを広場に控えた文武百官がひざまずいて迎え、儀典を司る礼部の役人がうやうやしく捧げて礼部に持ちかえり、文書を作って全国に布告を出したそうです。

 歴史はずっと下りますが、1949年10月1日にはここで中華人民共和国建国の式典がおこなわれ、毛沢東が天安門の楼閣の上から中華人民共和国の成立を宣言しています。

 現在のような百万人入れる大広場になったのは1959年で、建国十周年の祝典を前に拡張工事が行われ、広場の西側の人民大会堂(日本の国会議事堂にあたる)、東側の中国歴史博物館も同時に落成しました。

 この一帯は、明代から清代にかけて天街とよばれ官庁街だったそうです。明代には、吏部(人事省)、戸部(財務省)、礼部(儀典省)、兵部(国防省)、工部(建設省)などがここに置かれていました。清代に入ると、刑部(司法省)もここに移ってきて、中国の封建国家の中央行政機関である六部、つまり内閣のすべての省庁がここに集中します。日本でいう霞ヶ関だったのです。

 わたしはよく天安門広場に散歩にでかけます。お年寄りを真中にして天安門をバックに記念写真を撮る一家、田舎からでてきたお父さん、お母さんの手を引いて案内する息子夫婦、おそろいの帽子をかぶってガイドさんのあとに続く団体旅行の一行、凧あげに興ずる定年退職したおじいさん……こうした庶民たちの明るい笑顔や弾んだ笑い声が、わたしの心を和ませてくれるのです。

天壇と梅原竜三郎

 天安門広場の南の端が前門で、地下鉄環状線の駅があります。ここから17番のバスで二駅、タクシーでしたら南に十分足らずのところにあるのが、ユネスコの世界遺産に登録されている天壇です。

復興門の明代の城壁遺構は、北京の内城の遺構である。内城は全長22キロ余りあり、城壁の高さは12メートルで、両側にレンガを積み上げて造られている

 明の永楽18年(1420年)に造営された天壇は、ひとことで言うと天子、つまり天の子である皇帝が、その主人である天を祀り、天の前にぬかずいて、国泰民安(国の泰平と民の安寧)、五穀豊穣を祈るところだったのです。したがって、紫禁城がすみずみまで皇帝の権威を示すことに気がくばられていたのとは対照的に、天壇は紫禁城のおよそ4倍、270万平方メートルの敷地のすみずみにまで天を敬う敬虔さに気がくばられています。

 天壇というと、まず頭に浮かぶのは祈年殿でしょう。コバルトブルーの瓦の三層の傘型の屋根をもつ祈年殿の美しさは、6回も北京を訪れた「色彩の魔術師」梅原竜三郎を魅了し、『雲中天壇』という名画を生みました。梅原竜三郎を捉えたのは、祈年殿の建物もさることながら、『雲中天壇』や『北京秋天』のバックに描かれている北京の秋の空だったのかもしれません。梅原竜三郎は「北京の秋の空に興味をもった。まるで音楽を聞いているような空だった」と語っているのです。

 わたしは、この「音楽を聞いているような空」を楽しむ最高の場所は、ここ天壇だとよく人に言っています。広大な敷地のどこに立っても、空を仰ぐと東西南北さえぎるものはなく天、天、天……、大都会の一角とは思えぬ林のなかの静けさ、地上に点在する祈年殿の藍い瓦や円丘の白い祭壇……、すべてが碧い天と溶けあって「天地一体」を織りなしているのです。

 ちなみに、祈年殿の傘型の三層の屋根は、明代には上から藍、黄、緑の三色に分けられていました。藍が天、つまり天帝、黄が天子、つまり皇帝、緑が老百姓、つまり庶民を表していたといいます。

 下って清の乾隆16年(1751年)の改修工事のさい、現在の藍一色、三層の屋根がすべてコバルトブルー一色に葺き替えられたそうです。碧い空との融和という点からいっても、シンプルを好む乾隆帝の秀れた美意識が感じられ、この屋根の葺き替えは大成功だったと思います。

 ところで、故宮から天壇まで往復とも駕籠に乗らず、歩いて行って「国泰民安」を祈った皇帝がいます。明の万暦帝(1563〜1620年)です。次回は、この万暦帝の天壇詣でやその陵である定陵――地下宮殿のお話しです。

李順然 1933年日本東京生まれ。暁星、明治学院で学び、1953年に帰国、中国国際放送局日本部部長、東京支局長、副編集長などを歴任、この間に『音楽にのせて』『北京オシャベリ歳時記』『中国人記者の見た日本』などの番組のパーソナリティーを務める。現在フリーライター、中国人民政治協商会議全国委員会委員、主な著書に『わたしの北京風物誌』『中国 人・文字・暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。