【放談ざっくばらん】


こころの中の花と傷

                   文 中国社会科学院日本研究所 胡 澎

 

 去年12月、私が勤めている日本研究所は中国全国で、中日関係に関する世論調査を行った。私たち研究所の者は全国各地へ行き、調査を行った。3000枚あまりのアンケートを配ったが、その他に特殊な調査として、私たち自身もそれぞれ一枚のアンケートに答えを書き込んだのである。

 アンケートの第一問は「今年は中日国交正常化30周年ですが、あなたは日本民族に対して親しみを感じていますか」というものだった。そしてその答えとして「非常に親しみを感じる」「親しみを感じる」「普通」「親しみを感じない」「まったく親しみを感じない」「よくわからない、無回答」の選択肢があった。

 こうした答えを前にして、私はどれに印をつけようか迷ってしまった。日本に関する記憶や認識が、理性と感性の無数の断片が頭の中を飛び交うのと同じように、私の頭の中で浮かんでは消えていった。

 私はこれまで、この問題を敢えて直視せず、また直視したいとは思わなかったが、いまそれを直視せざるを得なくなったのだ。そこで私は、日本という国に対する複雑で、矛盾した自分の認識を整理し始めた。

 日本を知りたいという願望が最初に生まれたのは、1980年代初め、高校生のときだった。そのときは、1972年に中日国交正常化が実現したあとで、中日関係は蜜月時代といわれるほどうまくいっていた時期だった。中国の人びとは、映画やテレビ、新聞の日本に関する紹介から、日本が繁栄した、秩序のある国であり、日本民族は礼儀正しく、美を愛する民族であることを知った。

 私が日本と深い縁で結ばれたのは、90年代初頭、日本へ留学したときからである。太平洋側の筑波市と日本海に面している富山市で、私は4年間の歳月を過ごした。

 故郷の北京を除けば、富山は私が一番長く暮らしたところである。富山に着いたばかりのころ、天気はいつもどんより曇り、雨や雪が絶えずに降っていた。知り合いもいなかったので、毎晩、異郷で暮らす孤独感や強い郷愁を感じたものだ。

 しかし、留学が終わり、帰国するときになって、電車がゆっくりと富山駅をはなれたとき、両眼から涙が溢れた。この都市の一木一草が私の心に影響を及ぼしているのだ、と私は悟った。富山はすでに私の心の中で第二の故郷になっていたのである。

筆者の娘(右端)と山田武代さんの二人の孫娘の時代には、歴史の暗い影はなくなるだろうか

 富山で私は多くの善良で友好的な、ごく普通の日本人と知り合いになった。そして彼らの友情が、異郷で暮らす私の毎日を暖かいものにしてくれた。富山日中友好協会で長年ボランティアをしている山田武代さんは、まるで母親のように、私の世話をし、助けてくれた。私ができるだけ日本を理解するようにと、山田さん夫婦は休みを利用して、京都や高山、草津温泉などへ連れていってくれた。私の指導教官、三宝政美教授は、授業の合間に、彼の研究室で奥さんが用意してくれたお菓子を出し、ウーロン茶を入れ、お茶を飲みながら、私と心おきなく語り合った。

 中国語を教えることで、唐詩が好きな沢井さんと知り合った。正月には、彼の家に招かれ、お餅を搗いたりして、日本の伝統的な新年の風習を体験させてくれた。沢井さんともう一人の西田さんというお年寄りは、毎週一回、夜に、私と中国語を勉強したが、予習、復習を忘れず、2人とも子供のように真面目だった。

 また、別の友人の燕昇司さんは、私が帰国した後も、毎年、誕生日に必ずお祝いのカードを届けてくれる。誕生祝いのカードを開く瞬間、異国から届けられた深い友情と変わらぬ気遣いに私はいつも感動するのだ。

 こうした美しい過去は、私の人生の中で重要な一部分となっている。日本を思い起こすたびに、こうした昔の出来事は、まるで美しい花々のように、記憶の奥深いところで咲くのである。

 ところが、私の心の中にある日本は、美しい花としてだけ存在しているのではない。深い傷跡としても存在している。その傷跡は、中国の歴史に刻まれた屈辱の印として、中華民族の心に永遠に痛みを与え続けるものだ。私のような60年代生まれの世代は、自ら戦争を経験したことがないにもかかわらず、日本の国旗を見ると、どうしても日本軍の馬蹄に踏みにじられた中華民族のうめきや苦しみを思い起こさずにはいられないのだ。

 さらに、絶えず発生する教科書の改ざん問題や日本の首相の靖国神社参拝などの現実の問題が絶えず中国人の心を傷つけている。それはまるで、傷に塩を塗るようなものだ。日本の軍事力の増強や自衛隊の海外派兵などは、中国人の深い憂慮の念を引き起こさずにはおかない。

 歴史に対して正しく向き合うことをせず、歴史を粉飾し、改ざんする一部の日本の政治家やメディアに動かされて、強大な経済的実力を持っているものの戦後最長の経済低迷期にある日本が、ある日また歴史を繰り返すことがあるだろうか。

 私たち日本研究所の世論調査では、日本に対して「親しみを感じない」「まったく親しみを感じない」と答えた中国の民衆は43・3%で、「親しみを感じる」「非常に親しみを感じる」と答えた人は5・9%しかいなかった。中日関係に関心を持つ人々はこの結果を残念に思い、深い憂慮の念を覚えずにはいられないだろう。

 もともと中日間の歴史の最も重い一ページはすでにめくられたと思っていたのだが、両国の経済や文化、人の往来が広く発展するにともない、中日両国の相互の不信任や警戒心は少しも減っていない。そればかりか、かえって摩擦が絶えず発生している。中日関係は複雑で、困った局面に陥ってしまった。

 私はインターネットに載っている中日両国の強烈な民族主義のにおいがする文章に目を通し、いつも残念な気持ちになる。その中の一部の極端な言葉をみて、私は二つの民族が戦後半世紀たった後もなお、心は再び離れ離れになってしまったと感じている。

 日本という国と私は、さまざまな関わりがある。私の青春時代や私が従事した職業、それに私にとってずっしりと重たい友情の一部分は、いずれもこの国と緊密に関わっている。

 日本については、私はよく知っているというべきだろう。しかしそれとともに、日本に対して違和感や距離感を持っていることも認めざるを得ない。私はいつも戸惑っている。歴史の写真にある軍刀を手にしている日本軍人が、私の知り合った礼儀正しく、謙遜で、穏やかな日本人とは同じ民族であろうかと、時には疑ってしまう。私の感情はいつも、「花」と「傷」の間を揺れ動き、矛盾した気持ちになるのだ。

 山田武代さんの孫娘は、私の娘と同じ年に生まれた。たまたま2人とも名前に「晴」の字が付けられている。去年の夏、山田さんはわざわざ2人の孫娘を、私の娘に会いに、北京へ行かせた。4日間、私たちはいっしょに、北京のあちこちを見物した。

 3人の女の子は言葉が通じないにもかかわらず、バービー人形や日本のアニメを通じ、また子供の純真な心によって、だんだん親しくなった。彼女たちが楽しく遊ぶ姿を見、澄んだ笑い声を聞いて、私は心から感動した。彼女たちが大きくなったら、彼女らの心には歴史の暗い影がもうなくなり、私のように「花」と「傷」との間で徘徊したり、苦しんだりすることがないように、そしてまた中日の空に二度と戦争の暗雲がたちこめることがなく、平和と友好の晴れた空が見渡す限り広がるよう、私は願っている。