貴州省東部の台江県施洞は、清水江のほとりに位置するミャオ(苗)族の町だ。この地方一帯の渡し場であり、貨物の集散地でもある。人々はエンジンの付いた木造船に乗り、自動車は鋼鉄製のはしけ船に載せて河を渡る。今では、ここに鉄筋コンクリート製の大橋を建設するための資金集めをしているそうだ。

 
   
 
河原に広がる市場

清水江のカワウは、塘竜寨の子どもたちが愛する「ペット」だ

 町には河沿いに石畳の古道があり、さまざまな店が立ち並んでいる。この日は市の日ではなかったため、客足はまばらで、町の人たちは庭先で世間話に興じていた。しかし、市の日ともなると、四方の村から農民たちが自家製の野菜やくだもの、家畜や家禽、山の幸や手工芸品を携えてやってくる。石畳の古道と、新しくコンクリートで舗装された大通りの両側には、露店が立ち並び、にぎやかな市が開かれるのだという。

 広々とした河原の上に、ふいにサッカー場にも似た平坦なコンクリートの地面が見えた。不思議に思って聞くと、それは「河原の市場」であるという。市の日になると、露天商たちが一列一列、杉の木で組み立てた露店を設けて、品物を並べる。それが活気あふれる定期市となり、船に乗ってやってくる村人たちの役に立つというわけだ。

 前日は大雨にたたられたが、店主たちは洪水の氾濫を恐れて、すでに露店を河原の高い場所へと移し変えていた。聞けば「河原の市場」は、もともと栗石(建築土木用の丸石)と、三合土(たたきつち。石灰・赤土・砂利などを混ぜて、たたき固めたもの)を、河原に敷設したものだった。それがコンクリートに変わってからは、昔の素朴な味わいが薄らいでしまったようだ。

銀匠の名家を訪ねる

 施洞の塘竜寨(村)で作られる銀製品は、広くその名が知られている。通りに面した家々は、まさに銀の装身具作りに余念がなかった。

 銀匠の名家出身の呉懐さん(33歳)は、小さいころから父親に技巧を学び、今では独立して、銀製品の店を開いている。3人の職人を雇用している。

 彼らは、広間にある小さな腰掛けの上に座り、2枚の四角い銀板を銅型の上に置いて、小さな槌でそれをたたいた。しばらくすると、銀板に竜や鳳凰、魚などの形がだんだんと浮かび上がった。

塘竜寨に住むミャオ族女性が、美しい手作りの服を見せてくれた

 銀匠の仕事は一見すると気楽そうだが、実際はとても繊細である。たとえば、銀板を打ちつけるとき、その力が弱すぎると美しい図案が浮き出てこない。また、強すぎると銀板を打ち破り、それまでの苦労が水の泡になってしまうのだ。すべては職人の腕と経験にかかっているのである。

 銀匠の仕事は、銀板を槌でたたくほか、銀の鋳造、プレス、針金作り、編み込み、溶接、彫刻などの各種のプロセスと技巧に分かれる。とくに、手にした銀塊を糸のように細長く延ばし、首輪などのたくみな装身具を作り出す技は、「他に比類なし」と感心させられる。

 施洞には、銀の装身具を売る専門店が多いが、多くの銀匠たちも自作の品を売っている。呉懐さんたちが作ったものは、彼の妻が売りに行く。この日の早朝、彼女は船に乗って上流の定期市へと向かい、露店を設けて銀製品の販売をした。彼らが使う銀塊は、国の「少数民族特需用品政策」によって配給されているが、時には銀匠たち自身も、地元や湖南省などの地へ買い付けに行くのだという。

最もあでやかな民族

工房で銀塊を溶かす呉通儒さん

 中国の56民族の中で、ミャオ族の服飾は最も豊富多彩であろう。利発で器用なミャオ族の娘たちは、ろうけつ染めや刺繍、デザイン、編み込みを自ら施した衣服や、買いそろえた銀の装身具などで着飾って、まばゆいばかりのあでやかさである。

 その昔、ある人が中国南方に住むミャオ族を、百以上もの支族に分類した。その中の多くの支族が、服飾によって分けられたという。紅ミャオ、白ミャオ、青ミャオ、黒ミャオ、花ミャオ、長角のミャオ、ロングスカートのミャオ、ミニスカートのミャオなど……。

 ミャオ族の銀の装身具もさまざまで、人々の目を楽しませている。銀の髪飾り、扇、かんざし、くし、かんむり、首輪、胸飾り、イヤリング、腰飾り、チェーンベルト、衣装飾り、鈴、ブレスレットなど……。呉懐さんによると、胸飾りや腰飾り用の銅型だけでも、百種以上もあるという。

塘竜寨の銀製品は、地元の観光発展を促すための項目となっている。観光客は製品ができあがるまでを観賞するほか、好みのものを買うことができる

 ミャオ族は、銀の装身具をつけるのが好きだ。はじめは邪気を払い、自分を守るためであったが、後に銀の装身具がだんだんと増えて、その家の豊かさの象徴となった。

 祝祭日の行事になると、母親たちは似合いの衣服や装身具を入れた美しいカゴを担ぎ、娘を連れて祭りへと出かける。村の入り口に近づくと、母親は娘の髪をすいてやり、衣服を着せて、かんざしを挿す。会場の蘆笙場で待っている、精悍な若者たちの「お眼鏡」にかなうようにと、美しい娘に仕立てるのである。母親の胸も、娘のようにときめいている。

 こうして多くの両親が、嫁入り前の娘のために私財を投じて装身具を買いそろえてやる。そして最終的には、その価値1、2万元(1元は約15円)の装身具を嫁入り道具に、娘を嫁がせるのである。

珍しい牛竜崇拝

 漢民族と同じように、ミャオ族も竜や鳳凰を崇拝している。この信仰習俗は、服飾上にも表れている。呉懐さんが作った銀の装身具の中には、竜や鳳凰のデザインが立体的に浮き上がった胸飾りや腰飾り、髪飾りなどがある。

 ミャオ族の娘たちが戴く銀のかんむりには、太陽に向かって飛翔する鳳凰がデザインされており、「丹鳳朝陽」と称されている。また、たくさんの鳥に囲まれた鳳凰のデザインは、「百鳥朝鳳」と名付けられている。

銀製品を作る工具にも百種以上ある。塘竜寨ではほとんどの家で装身具を作っている

 ミャオ族にはまた、牛を崇拝する習慣がある。たとえば、ミャオ族の人々は、玄関の上に一対の木製の牛角を置いているが、これは牛の神様が家を守り、邪気を払うと考えられているからだ。村の祖先祭りの時には、厳かに牛角を祭る。来賓が村の入り口に入る時には、牛角の杯についだ酒でもてなす。盛装したミャオ族の娘たちは、頭に牛角の形をした銀のかんむりを戴き、牛を崇拝する吉祥のシンボルとするなど……。

 ミャオ族は、昔から牛を崇拝してきた。ミャオ族は古くは「九黎族」と呼ばれた。最も古くは現在の山東地方に暮らしていたが、後に、九黎族の首領・蚩尤が民衆を率いて、河北一帯へと移り住んだ。蚩尤の兵は、黄帝(中国の古代伝説上の帝王)が統率する部族と、菘鹿(今の河北省にある)の地で戦ったのだが、ことごとく破れた。九黎族の一部は黄帝の部族に吸収され、一部は徐々に南下して、長江の中流域および南方や西南地方へと逃げのびて、「三苗族」と称した。

 言い伝えによると、首領の蚩尤は「人の体に牛の蹄、頭には長い二本の角があった」そうだ。後に、河北地方で演じられるようになった「蚩尤戯」は、役者が頭に牛角を戴き、蚩尤に扮するのである。

 興味深いのは、ミャオ族のいくつかの村では、今も蚩尤式の帽子をかぶることだ。

清水江のほとり、塘竜寨の「河原の市場」は、地元の人々の交易地点だ。市の日には、立錐の余地もないにぎわいとなる

 民間伝説によると、蚩尤の兵が敗れた際に、賢い妻は蚩尤の命を狙って追いかける黄帝を知り、機転をきかせて、自分の頭に蚩尤のかんむりを戴いた。それにより、追っ手の目を惑わせて、蚩尤の危機を救ったのである。この時から、ミャオ族は蚩尤式の帽子をかぶり、自分たちの先祖をしのぶようになったのだという。

 ミャオ族が竜と牛を合わせて崇拝する習慣も珍しい。陰暦五月の端午節、施洞の竜船(ペーロン)祭では、竜船の先頭に「風調雨順、国泰民安」と記した一対の水牛の角をしつらえる。また、ミャオ族の女性が竜を刺繍する時は、往々にして、一対の牛角も刺繍する。牛角の形をした銀のかんむりには、2匹の竜が浮き彫りにされている、などだ。

貴州省安順県のミャオ族の女性と子供(東京大学総合研究博物館・提供)

 研究によれば、竜と牛を合わせて崇拝する習慣は、ミャオ族の稲作農耕文化と関係がある。稲作は、水とは切っても切り離せない。とくに、山地にある棚田は、いつも干ばつの脅威にさらされている。そのため雲の上を飛び、雨を降らすという竜が、崇拝の対象になった。また、水牛は食肉を供給するばかりでなく、田畑を耕し、自然の肥料も与えてくれる。

 牛を愛でる気持ちは、ミャオ族が陰暦の4月8日、役牛を一日休ませる「牛王節」を行うだけでなく、「ババ」というもち米で作った食べ物を与えるところからもうかがえる。また、牛と竜を合わせて称する時には、「牛竜」と呼んでいる。

 古代のミャオ族が、牛と竜を崇拝していた証拠となるものが1993年6月、湖北省黄梅県焦カユ村で発見された。栗石を敷きつめて作った、一匹の巨大竜である。長さ4・46メートル。口を大きく開け、長い舌を巻き、頭をもたげ尾を立てて、今にも飛び立ちそうな姿であった。今から4500年前に作られたこの竜は、その頭がなんと牛頭だった。

 当時この一帯に暮らしていたのは、南へと移り住んだ九黎族だった、と考えられている。

 

【ミニ資料】
 貴州省の概況 略称は「黔」または「貴」。亜熱帯温暖湿潤モンスーン気候地帯にあり、冬温かく、夏涼しい。年平均気温は摂氏15度。年平均降水量は、1200ミリ。人口は3525万人。漢族以外に、ミャオ族、プイ族、トン族、トウチャ族、シュイ族、コーラオ族、イ族などの少数民族が1333万9000人(省人口の37.8%)居住している。