呉儀 新副総理
WTO加盟で活躍した女性政治家

                  本誌編集部

向上心の強い「普通の女性」

対外貿易経済合作部で部長を務めていたころの呉儀

 

 今年3月に選ばれた新たな中国政府の指導層として、65歳の女性政治家・呉儀氏が、副総理に就任した。これまで彼女は、1993年から中国対外貿易経済合作部部長(部長は、日本の国務大臣に相当)、98年から副総理待遇の国務委員を担当、10年間連続して国政を担ってきた。(以下、文中敬称略)

 中国共産党の最高指導層である中央政治局のメンバーでもあり、党の歴史上、最高位で活躍する数少ない女性の一人だ。

 また、国民から最も歓迎され、尊敬されている女性政治家の一人でもある。伝統的な中国政界は、「家柄」を重視する悪弊から逃れられないが、「普通の女性」を自称する呉儀は、まったく「政治的背景」がなく、自分の才能、徳、勤勉さによって、一庶民の立場から、一歩一歩昇進してきた。

 新中国が成立した49年、呉儀はまだ11歳の女の子だった。大多数の同世代の人と同様、当時の彼女は、未来への希望で満ちあふれていた。むさぼるように知識を吸収し、生活の中で出会ったあらゆる美しいものに興味を示した。

 大学受験の前に観た旧ソ連の映画『モスクワから遠く離れた場所』が、彼女の心をひきつけ、北京石油学院で石油精製を専攻するきっかけになった。映画の主人公だった共産党委員会書記兼石油精製工場工場長こそが、その後、彼女の事業の模範となり、理想の「白馬の王子」になった。

 62年、大学を卒業後、生活条件や仕事環境が劣悪だった内陸部に行くことを志願し、蘭州石油精製工場の創業に関わった。65年、彼女は北京に呼び戻され、前後して北京東方紅石油精製工場と北京燕山石油化学工業公司で働き、技術担当、技術科副科長、科長、副技師長、副工場長、副総経理、共産党委員会書記などを務めた。

 その間、26年間途切れることなく石油化学業界に身を置き、実習生の立場から一つひとつ階段を上った。

 88年、呉儀は50歳で政界入りし、前後して北京市副市長、対外貿易経済合作部副部長、部長、国務委員を歴任し、3月、副総理に就任した。

仕事ぶりで部下をひっぱる

 呉儀は、「仕事の鬼」と呼んでよさそうだ。重い任務を受けると、寝食を忘れてうちこみ、最高の結果を求めて妥協しない。

 88年、北京市副市長になった呉儀は、自分自身が守るべき心得を決めた。それは、「一年間は海外視察をせず、休暇も取らない。管轄する工業生産と財務・貿易部門の状況を把握するため、時間と精力をつぎ込むこと」だった。酷暑の北京で、彼女は農村、工場の現場、商店、会社などに足を運び、約四カ月近くで40の企業・事業体の訪問調査を行った。その間、毎晩のように残業し、時にはオフィスの簡易ベッドで夜を過ごすこともあった。

 対外貿易経済合作部で働いた頃には、仕事でたびたび出国したが、いつでもスケジュールはぎっしりだった。95年に訪問した国は、12カ国に及ぶ。

 11月の訪米の際には、著名な経済新聞『国際商報』の記者が呉儀の一日を記録した。記事によると、朝8時半から22時までに、会議、記者会見、米商務長官との会見、米通商代表との会談、米企業家との会談など、七つの公式行事に参加した。この間、移動時間を除いては、休息はほとんどなかった。さらに驚いたのは、この日の昼食が、インスタントラーメンだったことだ。

 呉儀の同僚も部下も、彼女の効率的でスピーディーな仕事ぶりを知っていて、誰も手を抜くことはできない。ある部下は、「呉儀が招集した会議に遅刻する人はいない」と言った。

 呉儀の仕事への態度は、猛烈であるだけでなく、とても厳格だ。

 対外貿易経済合作部の部長当時、知人2人が、人から請われて遠方から呉儀を訪ね、立場を利用して、輸出入の割当額を増やしてほしいと要求したことがあったが、即座に拒絶された。呉儀は、「こんなことは許されない。規則は規則」とはねのけた。これにより、呉儀の知人が気まずさを味わっただけでなく、彼らの地元の幹部の機嫌も損ねただろう。しかし「普通の女性」呉儀は、断固として、権力を利用しなかった。

 北京燕山石油化学工業公司で党委員会書記を務めていたある冬、呉儀は、深夜零時をまわったころ、彼女が管轄する工場の労働者からの電話を取った。電話は、夜勤労働者の夜食が冷め切っていて、質が悪く、とても食べられるような代物ではないことを訴えるものだった。すると呉儀は詫びを言い、30分後にもう一度電話をしてほしいと頼んだ。そして30分も経たないころ、先刻の労働者が、工場長が食堂に来て問題は解決したとのお礼の電話をよこした。

 これが呉儀の人柄である。官僚的で、ただ給料だけを手にして、何も行動しない人を決して許さない。

国家利益を最優先し、すぐれた説得力を持つ

 中国メディアでよく使われる呉儀の形容は、「女強人」(強い女)だが、外国人記者には、「鉄娘子」(鉄の女)こそふさわしいという人もいる。これは、中国と米国の知的財産権交渉での彼女の活躍によるところが大きい。

 91年末、中米知的財産権交渉は、大きな困難に直面していた。中国側の首席代表が病に倒れ、対外貿易経済合作部に異動して間もなかった呉儀が、任務を引き継ぎ、中国側代表としてアメリカに飛んだ。

中米知的財産権交渉での呉儀とアメリカ側副代表のバシェフスキー氏

 アメリカ側の代表は、初交渉に臨んだ呉儀に対して、とても友好的とはいえなかった。双方が席につくと、アメリカ側代表は、「さあ、泥棒と交渉だ」と切り出した。当時、中国市場には海賊版がはびこり、アメリカ企業の知的財産権を侵害していたからだ。これは事実ではあったが、言葉遣いは失礼極まりないものだった。

 そこで呉儀はこう返した。「こちらは強盗との交渉だ。アメリカの博物館の展示品は、どれほどが中国から強奪したものですかね」と。中国の書画、陶磁器、青銅器、宝石・玉、史料などの価値ある文物が、外国人に略奪されたことは誰でも知っている。アメリカも略奪者として加わっていた。

 呉儀の反撃にアメリカ側代表は言葉を詰まらせ、交渉の席の空気は少しだけなごんだ。
これこそが、呉儀が外国記者から「鉄娘子」と呼ばれるゆえんだろう。

 しかし、これは彼女の一面でしかない。道理をわきまえ、誠実で、相手を尊重し、必要な譲歩をするという、別の一面にも目を向けるべきである。

 実際、交渉の期間中、呉儀は、中国国内で、アメリカなどの知的財産権保護の規範を宣伝して回り、中国の関連部門に学ぶ必要性を説いた。当時、彼女がアメリカの規範を推薦することに理解を示さず、相手の圧力に屈していると感じている人もいたほどだ。

 そこで彼女は、知的財産権の大切さを説くために時間を掛けた。例えば、ある産業界、商業界の人たちにこんな話をした。どんなことでも長期計画が必要で、他人の技術がほしければ、お金を払って獲得しなければならない。これこそが世界市場に打って出ることを意味する。逆に、もし他の会社の労働成果、知的財産権を無視すれば、みずから商売のチャンスを逃すことになり、国の名誉も傷つけることになる。そんなことを許していいのか。

 ぜひ触れておきたいのは、呉儀が、プライベートを含めた国際的な交流で、「信」(信頼)を重視していることだ。彼女は、同意に達したら遵守する。これこそが、言行一致の信頼だと話す。交渉が合意に達した後、中国は立法と行政で、海賊版ビデオCDやその闇製造工場を取り締まり、違反者を厳罰に処している。こうすることで、中国マーケットを浄化し、信頼を得ることもできる。

 合意後、やはり女性のアメリカ側代表は、「呉儀氏について一言」との質問を受けて、「彼女は国家利益の擁護者であり、粘り強い交渉者だった。すぐれた説得能力の持ち主でもある」と答えた。

 彼女の呉儀に対する評価は、メディアが使う「鉄娘子」よりも適切で、実際の彼女に近い。

「幹部としての自分は、一時的な存在」

 呉儀が、同僚や部下の面倒見がいいのも事実だ。

 ある部下は、呉儀のお付きとしてカナダを訪問した際の話をしてくれた。いつもと同様、呉儀は飛行機を降りるとすぐに、仕事に取りかかった。招待側からナイアガラの滝の観光に誘われた時には断り、お付きの人たちに休暇を与え、同地の景色を楽しませた。

 呉儀は「女性指導者のことづけ」という文章に、「部下にいたわりの心を持ち、功績を自分のものにし、過ちを他人に押し付けてはいけない。部下が失敗をした際には、進んで責任をかぶりたい。正念場には勇気をもって立ち上がり、正義心に基づいて行動すべきである。嫉妬心は持つべきではなく、人をおとしめることはもってのほかである」と書いた。

 これらは政治の道の箴言であり、呉儀本人の人格をみごとに現している。

日本の佐藤信二通産大臣(当時)と会見した対外貿易経済合作部部長当時の呉儀

 呉儀の性格は率直、開放的で、言葉遣いは簡潔明快である。有名な指導者になる前もなった後も、同僚の前でも大衆の前でも、いつでも誠実さを失わず、一部の幹部とは違って言葉を濁さず、表裏のない人である。

 呉儀は今でも独身を通している。そのため、様々な憶測を呼び、うわさも絶えない。本来、プライベートについて発言する必要はないが、彼女はよく話し、論語などの言葉を引いて、「君子蕩々として、小人戚々たり」、「人言を恐れず従容とし、女子その境地に至ると豪傑なり」と語る。それも一回や二回ではなく、公の場で、「私は独身主義者ではないし、独身でいようと思ってもいない」と語っている。「若い頃は、完全無欠の『白馬の王子』を探し求めていた。そんな人は現実にはいないとわかった時にはすでに遅かった」と話す。

 呉儀は自分自身に厳しく、個人の思想や道徳修養を大切にする。日記をつける習慣があり、孔子の「吾 日に吾身を三省す」「三人行えば 必ず我が師あり」という言葉の真の意味を信奉し、屈原の「路は漫々として其れ修遠なり、吾将に上下して求索せんとす」を実行し、自己向上に努めている。

 呉儀の興味は幅広い。釣り、ゴルフ、ボーリング、テニスといったスポーツが好きで、中国女子テニスナショナルチームの代表も務める。またカラオケや音楽鑑賞のほか、特に中外の名著や中国古典などの読書を好む。趣味が広ければ生活が豊かになり、情操を養い、人間としても成長できるというのが彼女の考えだ。

 ファッションは、いつでも適切で、呉儀の真似をして「呉儀ファッション」を楽しむ人までいる。彼女自身によると、普段はそれほど服装に気をとめていない。重要会議や外国訪問の際に、雰囲気に合った服装を考える。中には自分でデザインしてオーダーしたものもあり、女性は誰でも美を追求しようと呼びかけている。

 毛沢東は、「女性が天の半分を支える」と言ったが、現在、呉儀のように政界のトップで活躍する女性は、まれな存在だ。今日の呉儀は、押しも押されぬ名声を得ているが、彼女は幹部としての自分と、人間としての自分をどう意識しているのだろうか。

 「幹部としての自分は、ほんの一時的な存在。人間としての自分は、一生の存在。清廉潔白な人であることが、何よりも大切」と答えた。

 これこそが呉儀である。これこそが、呉儀の人生哲学である。

 (本稿は、『中国婦女報』などの刊行された資料を参考に構成した。ここに感謝の意を表明する――編集部)