牡丹の里 山東省・カ沢市

                       カ沢市対外宣伝弁公室  劉 軍

カ沢牡丹祭の開幕式
 2003年4月18日、中国の山東省カ沢市は、数万の国内外からのお客さまを迎えた。来訪の目的は、ここで年に一度開催される「国際牡丹花会(牡丹祭り)」に参加するためだった。カ沢市にはたくさんの牡丹の畑があり、あたかも来客を歓迎するかのように、全市に咲き乱れていた。

 中国人の心の中で、牡丹は特別の地位を占めている。人々は牡丹を、平和、吉祥、富貴、繁栄の花と見なしているのだ。

 牡丹は、中国で約1500年の栽培の歴史を持っている。漢(紀元前206〜220年)代から早くも薬用植物として栽培され、『神農本草経』にも記載されている。南北朝(420〜589年)時代から、牡丹は観賞用植物となり始めた。

 そして隋(589〜618年)、唐(618〜907年)時代には、しだいに貴重な花卉の一つとなり、唐の開元年間(713〜741年)には、首都の長安で盛んに栽培された。当時、牡丹を栽培することが一種の流行になり、ブームになっていた。その時期に牡丹は、中国における「国花」の地位をほとんど確立したようだ。

 中国では牡丹栽培が盛んな地方は多いが、その中でもっとも有名なのはカ沢の牡丹だと言ってよいだろう。昔、カ沢は曹州と呼ばれ、古くから「曹州の牡丹 天下に甲(第一)たり」といわれている。

典型的なカ沢の牡丹

 カ沢は江蘇、山東、河南、安徽の四省の境に位置し、黄河の堆積によってできた平原にある。気候は温暖で雨量は多く、土地は肥え、四季の区切りがはっきりしている。これは牡丹の生育にとって、恵まれた自然条件となっている。しかもカ沢の人々は、花草を植える習慣があり、早くからカ沢は牡丹の楽園となってきた。

 隋代にカ沢は、花の名人といわれる斉魯恒を生み、明代には、牡丹が大規模に栽培され、活況を呈したと伝えられている。史書には「明に至りて、曹南の牡丹 海内に甲たり」「曹州の園戸 花植えること黍粟の如し、常に頃(百畝)をもって計る」という記載が残っている。牡丹の栽培がどれほど盛んだったかを見て取ることができる。

 カ沢の牡丹は花が大きく、花弁がたくさんあり、色が多様だという特徴がある。その中で、珍品といわれるのは「黒花奎」「煙籠墨」「青竜臥池」など、黒牡丹の系統である。

 もともと牡丹には、黒い色のものはなかった。唐代に則天武后が即位すると、すべての花に花を咲かせよと命令した。だが牡丹だけはその命令をきかず花を咲かせなかった。則天武后は非常に怒り、牡丹を都から追い出してしまった。だが一部の牡丹は、死んでも元の土地を離れようとしなかったため、則天武后によって焼かれてしまった。

 ところが翌年、春風が吹くと、黒い花の牡丹が競うように花をつけた。人々はそれを「牡丹の精」と呼んだ。この黒牡丹を詠んだ詩には「誰が家の硯を洗う池頭の水、澆ぎて人間(世の中)に出ずる異様の芽」とある。

 「葛巾紫」と「玉版白」も曹州の牡丹の中で素晴らしいものである。「葛巾紫」は紫牡丹の一種で、花びらがびっしりと重なりあい、花が皿のように大きい。艶やかな紫色をしていて良い香りがする。「玉版白」は白牡丹の一種であり、花びらは何重にも重なって咲き、玉の如く白い。

 清代の小説家、蒲松齢が著した『聊斎志異』の中の『葛巾』の一編は、花の妖怪を描いた有名な物語で、人々の心の中に「葛巾紫」と「玉版白」の特別なイメージを植え付けた。物語は「葛巾紫」「玉版白」が二人の娘の姿に変わり、牡丹好みの洛陽の書生で兄弟の常大用と常大器にそれぞれ嫁いだ。二組の夫婦に子供ができたが、常大用は妻が花の妖怪の化身ではないかと疑い、とても怖くなった。葛巾と玉版は遂に子供と夫を捨て去っていった、というものである。

 歴史的にみると、カ沢の牡丹は何回も天災や人災に遭い、いくたびも繁栄と衰退を繰り返してきた。カ沢は黄河の下流にあり、カ沢のあたりでは黄河の水位は地面より高い「天井川」となっている。このため黄河が氾濫するたびに、カ沢の牡丹は必ず被害を受けた。

 教育家の趙守文の『牡丹の三回の大災害』という本の中には、コハ沢の牡丹は何回も水害に遭い、絶滅に瀕するほどだったと書かれている。最近では、1931年に黄河が決壊したとき、水がコハ沢の城北にまで達し、牡丹の大半は水浸しになって死んだ。「ただ土地が高く、広いところだけが数畝、生き残った」と記載されている。

 昔は旱魃と水害が繰り返し発生し、災害への抵抗能力がとても低かった。食糧の値段は高騰し、4年間も栽培した一本の牡丹が1斤(500グラム)のサツマイモにも交換できず、花卉農家は泣く泣く牡丹を掘り起こし、食糧に植えかえたのだった。

 清の光緒(1875〜1908年)年間から宣統(1909〜1911年)年間まで、カ沢の趙楼村の南に、二株の樹齢200年を超す紅牡丹の木が枝と葉を茂らせていた。この木は「脂紅」といわれ、高さは約4メートル、枝から枝までの幅は約6メートル、幹の太さは茶碗ほどの大きさで、「牡丹の王」と呼ばれていた。毎年夏になると、老人たちはよくこの牡丹の木の下に集まり、涼をとりながら昔話をしたり、子供たちはその木に登って遊んだりしていた。だがこの珍しい「牡丹の王」も、清朝末期に人の手で傷つけられ、死んでしまった。

カ沢の牡丹

 1979年、中国で改革開放が始まった。カ沢の牡丹も新たな発展の段階に入った。1994年、中国では国花を選ぶ初のイベントが開催された。そして繁栄、吉祥、富貴を象徴する牡丹が国花に選ばれた。

 カ沢の牡丹の価値もこれにつれて高くなり、広州、北京、南京などで、相次いでカ沢の牡丹展が開催され、見学者は百万人にも達した。

 1992年から始まった年に一度の「カ沢国際牡丹花会」は、多くの国内外の観光客を引き寄せた。カ沢の牡丹はしだいに国外と国内のさまざまなコンクールで金賞や銀賞を授与された。1999年に中国の雲南省で開かれた「昆明世界園芸博覧会」(昆明花博)では、カ沢の牡丹は119項目の牡丹に与えられる賞のうち81の賞を受けた。

 現在、カ沢市では、牡丹の栽培面積はほぼ5万畝(約3300ヘクタール)に達し、品種は800種に近い。1994年、カ沢牡丹研究所は牡丹の種苗を北緯45度以北にある三大寒冷地帯の一つの佳木斯に運び、零下37度の気候の下で牡丹を見事に咲かせることに成功した。カ沢の人々はいま、人間の意に添って牡丹を開花させることができる栽培技術を持つようになった。

 カ沢の牡丹は日本に行ったこともある。1982年4月、東京で「中国牡丹観賞会」が開かれ、東京の各界の人々や中国からの留学生五百余人が観賞に訪れた。当時の中国駐日本国大使館の宋之光大使は「牡丹は平和の使者であり、中日友好関係がこの花のようにきれいに咲くよう願っております」と述べた。東京のメディアはこのイベントを「牡丹外交」と呼んだ。