その3
いま起業家として輝く
かつて大寨の「鉄姑娘」
                  文・李要武 写真・馮 進

かつて大寨の「鉄の娘」といわれ、いま大寨経済開発総公司の会長兼社長になった郭鳳蓮さん。大寨の人々の願いを携えて、北京で開かれた第10期全国人民代表大会に参加した

 その女性は、肌が白く、きれいに着飾っていた。口を突いて次々に、流行の新しい言葉が飛び出す。携帯電話で話しながら応接室に入ってきて、私たちと二言、三言交わすと、また電話がかかってくる。そのたびに彼女は「すみません」と言って電話を受けるのだった。

 この女性こそ誰あろう、かつて「農業は大寨に学ぼう」で全世界にその名をはせた大寨の「鉄姑娘」(鉄の娘)といわれた郭鳳蓮さんである。

 彼女に会ったのは、先ごろ北京で開催された第十期全国人民代表大会第一回会議でのことだった。彼女は「農業界」の代表と言われていたが、実際は「企業界」の代表だった。なぜなら現在の彼女の肩書きは「大寨経済開発総公司会長兼社長」だからだ。

大きく変わった今日の大寨

 今日の大寨は、昔とはまったく違う、と彼女は説明する。2002年の村の総収入は1億元を超した。村民一人当りの収入は4100余元で、農民の全国平均の1・6倍以上に達し、生活水準は明らかに高くなった。

 1992年からほぼ10年の間に、大寨にはすでに十数の企業ができた。ウールのシャツ製造工場、服装公司、セメント生産工場、酒造有限公司、貿易公司、生態系を重視した観光公司、養殖場、飲料公司などだ。

 当然のことながら農業公司もある。しかし、現在の農業生産額は全村の総生産額の1%前後を占めるに過ぎない。村の主な産業は、工業、商業、サービス業になったのである。

 中国の人々は大寨の変化に大きな関心を寄せている。それはおそらく、一種のノスタルジアから来ているのだろう。今日、「大寨」のブランドは、中国の市場で鳴り響いている。国外も含めて一部の企業が、郭さんに「大寨印」の産品の合弁経営を申し出ている。その際、「大寨」のブランドだけで20%から25%の株を労せずして受けとることができるというのだ。

 この数年、大寨で生産される「大寨印」のウールのシャツとクルミ飲料は、市場でよく売れている。クルミ飲料の一部は輸出されていて、消費者に歓迎されている。

 大寨は現在、山西省の観光地の一つにもなっている。なぜならここは、生態系を重視した農業のモデルに基づいて、10ヘクタール以上あった昔の大寨の農地は大部分がすでに「退耕還林還草」の政策で、耕地から林や草地に変わったからである。かつて老若男女が天と地を相手に闘った戦場である虎頭山は今日、貴重な森林公園へと変わった。山頂は緑の松柏に覆われ、山の中腹は観賞林や果樹園に、山裾は草地と花園に、周囲は防護林になっている。

 現在、大寨の大地は、67%が森林に覆われている。わずかに残された2ヘクタールにも満たない農地は、完全に近代的な管理運営が行われている。人々はダムを造り、深い井戸を掘って、かつてはどうしても実現できなかった水利化を根本的に解決した。

 生態系を重視した森林公園やこの地方独特の窰洞と呼ばれる洞窟式の住宅、村の女性たちの手で作られる「虎頭鞋」(虎の頭をかたどった子ども用の布靴)、五穀を炊き込んだ「五谷飯」などが、毎年、国内や海外から、10万から20万人の観光客をここに引きつけている。

 1976年6月号の『人民中国』は、「大寨と郭鳳蓮」を取り上げて、こんなふうに紹介した。

 「大寨は、山西省昔陽県大寨人民公社に属する生産大隊の一つで、海抜千メートル余りの虎頭山のふもとにある。戸数は90数戸、人口は450余名。労働力は男女あわせて160数名で、耕地が56ヘクタール強」

 そして大寨が以前は、石ころだらけの禿山で、耕地はきわめて少なく、そのうえ痩せており、いつも乾ききって水が足りなかった。村人はずっと貧しく、衣食も十分でなかったことなどが書かれている。

 しかし、1960年代になってから、大寨の名はだんだん有名になっていった。そのころ、自然災害がしきりに発生し、人々は不安におののいていた。当時、大寨の党支部の書記だった陳永貴は、艱難辛苦を恐れなかった。彼は村民を率いて荒地を開墾して田畑にし、山を掘り崩して田を造り、自然災害に打ち勝ったのだった。その結果、大寨は、政府に食糧と現金による救済を求めることがなくなったばかりか、国家に食糧を売り渡した。

 こうした大寨の精神は、毛沢東を深く感動させた。1964年、毛沢東は全国に「農業は大寨に学ぼう」というスローガンを打ち出した。それから大寨は、全国の農業の模範となったである。

失敗から立ち上がる

 家が貧しかった郭鳳蓮さんは、初級中学を卒業してすぐ、14歳で農業に従事し始めた。そして16歳で「鉄姑娘生産隊」の隊長になった。党支部の書記の陳永貴が大寨から北京に移動したあと、郭さんは党支部書記の重責を引き受けた。

 しかし、後になって、上層部の指導が「左」の誤りを犯したため、大寨も政治闘争の渦に巻き込まれた。当時を回顧して、郭鳳蓮さんはこう言う。

 「あの時は、私のような政治のわからない者でも、人の後ろにくっついて、間違ったことをたくさん話しました。今から思えば、悪夢を見ていたようです」

 「文革」以後、「左」の誤りは正された。中国の農村は一歩一歩、人民公社制度を廃止していった。人民公社は、生産手段の集団所有と労働と分配の統一を基礎とした制度である。そして、各家庭が土地を請け負い、農民が自主的に経営する生産方式に改められ、実行されていった。農業以外に工業、商業、サービス業も興り、市場は開放され、全体が繁栄し始めた。

 「この時期、私は昔陽県政府に転勤し、公務員になりました」と郭さんいう。「これが私に、過去を真剣に総括し、中国の農村で現在進められているさまざまな発展のモデルを比較検討する時間を与えてくれました。そしてついに新しい認識に達したのです」

 「それは、私たちの大寨はかつて、石ころだらけの荒地に食糧を植えることばかりをやってきた結果、苦労はしたが、ただお腹を満たすことができただけで、貧しさを根本から治すことはできなかった。今後は『市場とともに歩み、儲かることなら何でもやる』のです。もちろん、法律を守り、規則に従って納税しなければなりませんが」

 後に大寨も、各農家が自主的に経営する方式を実行したが、生活の変化は大きくなかった。大寨の発展速度を速め、村民の経済状況を出来るだけ早く変えるため、1991年末、昔陽県の指導者は大寨の村民の意見を聞いたうえ、郭鳳蓮さんにもう一度、大寨に帰ってきて仕事をするよう決定を下した。郭さんは喜んでこの決定に従ったのだった。

 「そのとき私は45歳になっていました。あれこれ理由をつけて辞退することもできたのですが、私はそうしませんでした。それには二つの理由があるのです」と郭さんはいくらか感動を込めて言った。彼女の言う二つの理由の一つは、大寨が貧困を抜け出して豊かになる道を彼女が悟ったこと、もう一つは彼女が自分の故郷を深く愛していたからだった。

 大寨に帰ってからの郭鳳蓮さんは、また「鉄姑娘」を彷彿させる精神を奮い起こし、村民を率いて10年近い懸命の努力を続けた。その結果、ついに大寨を貧困から抜け出させ、現在の富裕の道へと歩ませたのだった。これこそ先祖代々、大寨の人々が夢に見てきた道なのである。