その5
子の教育に夢託す
人力で引く小舟の船頭
                 文・写真 劉世昭

 宋文剛さんは今年、55歳になった。髪の毛に白髪が少し多くなったものの、実直な顔つきや炯炯と光る自信に満ちた眼光は依然として変わらない。私と知り合ったのは11年前のことである。

 その時、私は長江の三峡を歩いて取材し、湖北省巴東県までやって来た。そこで宋さんのエンドウ豆のさやの形をした木造の小舟「豌豆角」(エンドウ豆のさや舟)に乗って、長江の神農渓で三日間を過ごしたのだった。

 神農渓は、湖北省の神農架に源を発する長江の支流である。

絵葉書になった宋さん

 当時、彼は舟の船頭で、助手一人と四人の引き手を抱えていた。流れに逆らって舟を進ませるとき、彼は船尾で太い木の竿を操り、これを舵として舟を前に進めるのだ。川を下るときには、水の流れに乗って進み、彼は舟のへさきに立って太い木の竿を操って、船の進む方向をコントロールする。

 三日間、我々の舟は、無数の危険に出会いながら、一つ一つその難関を突破した。今でも私は、彼の「豌豆角」を操る熟練した技で急流や険しい瀬をくぐり抜けた情景を繰り返しまぶたに浮かべる。また、彼が荒々しく、高々と「イー、イヨー、オ、ヘイヨー、イヘイ、オ」と音頭をとったその声が、心の中に繰り返し響き渡るのだ。この時のことは、『人民中国』1992年8月号の「巴東―神農渓の舟ひく人」に掲載された。

 今年3月、私は再び巴東県を訪れた。そして宋さんの招きで、彼がいま仕事に使っているエンジン付きの小船にいっしょに乗り、長江から神農渓を遡り、彼の家へ行った。宋さんは16歳から神農渓の川で操船を学び、これまで39年間の経験を積んできた。このあたりではもっとも優れた船頭である。

 神農渓の山水は秀麗で、中でも流れに逆らって進む「豌豆角」や引き手が引き綱を引く昔ながらの仕事のやり方は、一種独特の生活の情景である。1984年、神農渓では、観光資源の研究と開発が始まり、1989年からは正式に観光客を受け入れ始めた。宋さんは最初からこの観光事業に加わり、「豌豆角」に観光客を乗せてきた。

苦しかった昔の生活

 この「豌豆角」観光が始まる前、彼は毎日、神農渓で舟を走らせ、運送業を営んでいた。このころの年収はわずか千元前後だった。この収入で、妻の父母と妻、三人の子どもを養うのは相当厳しかった。だが、観光事業に参加してから、収入は着実に増えた。それでも私が最初に取材に訪れた1992年当時、一家全員が食べるには困らなくなっていたものの、生活の質は高くはなかった。

 宋さんは頭を働かせるのが好きな聡明な人である。1995年、ある偶然のチャンスが彼に訪れ、そこから彼の生活は変わった。

宋家の庭に座る宋文剛さんと奥さん

 巴東県が作った絵葉書セットの中に、宋さんが「豌豆角」を操る姿を写した一枚があった。彼はその絵葉書を仕込んで、「豌豆角」で売ることを考えついた。中国人だけでなく世界各地から来た観光客は、宋さんが操る「豌豆角」に乗った後、みな、この絵葉書を買い求め、記念にと、宋さんのサインを求めるのだ。

 宋さんの収入は増え続け、2002年には年収が5万元近くにまでなった。これは、2002年の中国農村人口一人当り平均収入の、なんと20倍に等しい。

 我々は船を降り、デコボコした山道を一時間半歩いて、やっと深い山の中にある宋さんの家に着いた。そこは神農渓から四キロも離れている。この一帯は、トゥチャ族の居住地であり、宋さん自身もトゥチャ族である。この数年、農民たちはみな家を新築したので、現在、トゥチャ族の伝統的な高床式の民家を見つけるのは難しくなった。

三人の子を大学に

 宋さんは、村の中では最も裕福である。宋家にあるテレビは、衛星デジタル放送が受信できるテレビであり、家の屋上にはソーラーシステムの温水装置が備えられ、水道が家まで引かれている……。

 宋さんの「傑作」は、三人の子どもを次々に大学に行かせ、卒業させたことだ。「みんな子どもたち自身の努力の結果です。私は教育程度が低い。小学校に6年間通っただけですから、いつもの勉強を私が指導することはできません。だから試験の成績を見て、成績が悪ければ怒鳴るだけです」と宋さんは、子どもを育てたときのことを回顧した。

 子どもたちは、小中学校に通っていたときは、放課後、帰宅するとすぐ家事を手伝った。豚の飼料の草を刈り、薪を背負い、夜になってやっと勉強ができた。

 子どもを大学に上げるのは、宋さんにとって大きな経済的な負担だった。そのため彼は、前後して5万元近い借金をし、子どもたちを大学に行かせた。その借金は、2001年にやっと返済できた。

 こう話すときの宋さんの表情は、平静そのものだったが、私は彼の苦労の大きさを深く感じた。「そんなにまでして、どうして三人の子どもを全部、大学に行かせたのか」と尋ねた。すると宋さんは「今日、社会の潮流は文化を必要としている」と答えたのだった。

 我々はいっしょに宋家の向かいにある山の上に登った。そこからは遠く、神農渓がその源を発するところ、野人出没の噂の絶えない大きな山――あの神農架が遥かに望まれる。神農渓は、山の下をくねくねと流れていた。

 「退職するまで、私の任務はまだ多くかつ重い」と宋さんは言った。彼は、神農渓の河道を整備し、観光客の安全を保証しなければならない、若い船頭たちを養成しなければならない、神農架と神農渓を結ぶ観光ルートを開発するために、ベストを尽くさなければならない、と私に言った。

 山を降りる途中で宋さんは、現在、修士課程で勉強を続けている長男に携帯電話をかけた。勉強の状況を尋ねると、学費が一万元足りないことがわかった。すると彼は「それなら一万元、やろう」と言った。その表情はまったく平静だった。