蘇州河に生きる
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障害のりこえ 助け合う夫婦の手
             写真陸傑 文・唐寧

 

 上海の蘇州河のほとりに暮らすふつうの人々――。彼らは、まさに改造中か、あるいは取り壊しと移築を待つ古い里弄(横町)と、その古い家々に住んでいる。蘇州河両岸の変化を見ながら、自分も平凡で真実のつまったストーリーを演じている。ここでは、あるふつうでありながらも独特なカップルについて、ご紹介しよう。

 

四台の事務机

子どもの一歳の誕生日を祝って

 庫海洋さんと王麗さんの家は、上海市江蘇路のアパート一階にある小さな二間だ。夫婦はともに手が不自由で、いわば「2人で一本の手」しかない。部屋に入るとビックリしたのは、この夫婦の家には、四台もの事務机があったこと。うち一台には、コンピューターが置いてあった。庫さんは、笑いながら言った。「これは、王麗が自分で組み立てたものです。もう3回も取り替えましたよ。今でも、テレビはないんですが……」

 38歳の庫さんは、あらわになった手のひらのない両腕をすばやく合わせると、筆者が卓上においた名刺を、まるで「吸う」かのように取り上げた。そして、自分の名刺をさしだした。そこには彼の職場が記されていた。「(上海市)長寧区身体障害者連合会」である。

 彼の妻は、四川省出身の王麗さん(30歳)。スマートで美しく、毅然とした顔立ちである。彼女の右腕は「義手」であり、ブラウスのそで口の下には、銀色の手袋がはめられていた。

 庫さんは、手足の不自由な人への連絡係を担当していた。彼が居住する社区(コミュニティー)には、6000人の身体障害者がいる。仕事の話になると、庫さんはじつに感激したようすで、長寧区の民政局局長のことを話してくれた。

手の不自由な庫海洋さんだが、書道の腕はバツグンだ

 その年、求職中だった彼は局長あてに手紙をしたため、一週間以内に面接を受けることになった。当日、局長は彼に聞いた。「手紙は、あなたが書いたものですか?」。庫さんはその場で、もう一度書いてみせた。別の試験官が聞いた。「もし、新聞が床に落ちたらどうします?」。庫さんは、卓上に虫ピンの入った箱を見つけると、そのふたを開け、床の上にひっくり返した。そしてしゃがみ込むと、虫ピンを一本一本拾い上げた。「もし、電話があったら?」。当時は、まだダイヤル式の電話であった。庫さんは電話を引き寄せると、まず一番かけにくい「〇」を回し、外線につなげると「228779」を回した。試験官たちはみな、天気予報を聞くことができた。つづいて、彼はまたインクの瓶を開けると、万年筆にインクをつけた。「もういい、もういい、しなくてもいいですよ」。局長は彼の動作を止めた。一週間後、庫さんはめでたく採用通知を受け取ったのだった。

トラは爪がなくても

 庫海洋さんが14歳のころである。春節(旧正月)前に、火薬紙を買ってきた。火薬紙を小さな四角に切りとり、靴クリームの入った鉄製の缶のなかに入れておいた。一枚一枚、遊ぼうと準備したのである。ふたを閉めたその時、缶が爆発した。激痛を覚えて目を開けると、手のひらが二つともなくなっていた――。

子どもの一歳の誕生日を祝って

 中学、高校と、暑い日でも長袖の衣服で腕をおおった。わんぱくの同級生たちが、「断手」と呼んではからかった。それで学校へ行きたくなくなったが、担任教師が励ました。「いけません、将来はきっと何かの役に立つのですから」

 庫さんは、足や口をつかって字を書こうと試みた。そして、ついに不自由な両腕をつかって筆をはさみ持ち、ぐにゃぐにゃと曲がった「身残志堅」(身は残ったが、志は堅い)の四文字を初めて書きしるしたのである。一つひとつの文字は、頭より大きかった。担任教師は、クラスメートたちに四文字を見せ、庫さんの努力をほめたたえた。弱かった少年に、その行為がどれだけ大きな励ましを与えたか、担任教師は知るよしもないだろう。それは彼の生涯に、銘記されるほどのすばらしい出来事となった。

住居前に立つ庫さん一家

 一方、四川省・宜賓生まれの王麗さんは、2歳の時に火に当たっていて、綿入れ上着に火花が飛んで、大やけどをした。それは敗血症となり、右腕を切断するまでの重症になった。しかし、幼少のころから「腕一本」になったので、早くからそれに慣れていたようである。「まるで生まれた時から一本の手だったように、人が2本の手を使ってやることも、私にはできるのです」と彼女は言う。

 庫海洋さんは高校を卒業後、大学入試を受けたいと思ったが、当時、彼のような身体障害者を受け入れる大学はなかった。そこで、たいへんな苦労をして仕事を探したのだが、多少待遇のいい職場は、彼が身体障害者だという理由で、その就職を拒絶した。ただ一つ、たいそう遠くの工場に、倉庫管理をする仕事があっただけだ。

 しかし、彼はあきらめなかった。努力して勉強し、文字を習い、求職の願書を書いた。「トラは爪がなくなっても、その激しい気性は残っているものだ」。彼はそう、自己評価した。そしてついに、チャンスがやってきたのである。

偶然の出会い

 このおしどり夫婦が知り合ったキッカケは1990年、雲南省昆明市で開かれた中国身体障害者スポーツ大会であった。手が不自由なことを除けば、二人とも均整のとれた体で、健康だった。それで、一人は中国東端の上海で、もう一人は西部の四川で、それぞれランニングの練習をはじめていた。

 庫さんは85年に、フェスピック(極東・南太平洋身体障害者大会)に参加したことがあり、王さんは88年、ソウル・パラリンピック(国際身体障害者スポーツ大会)に参加したことがあった。庫さんは、グラウンドで初めて王さんを見た時の情景を、今でもハッキリと覚えている。

 「彼女を見た時、ぼくの目は輝き出しました。宿舎に戻ると、彼女はぼくの向かいの部屋に泊まっていたのです。上海に帰るとすぐに、彼女に手紙を書きました――同じ天涯の身体障害者です。出会いに、かつて知り合いであった必要はない。互いにうやまい、許しあい、協力しあって、人生に彩りを添えましょう――と」

一家の幸せなひと時

 王さんは手紙を受けとると、自分の写真を彼に送った。こうして手紙をやりとりし、その翌年、彼らは上海で婚姻届を出した。庫さんの母は、二人とも手が不自由なので、生活が大変なのではないか、と心配した。しかし、庫さんは言った。「グラウンドで初めて彼女の姿を見た時、その意志の強さがすぐにわかりました。それは、ぼくたち身体障害者にもっとも大切な生存能力なのです」

 上海に嫁いで半年後、王さんは外国汽船の積荷検査会社の秘書になった。聡明な王さんは、上海のような大都市で暮らしたり、仕事をしたりするには、必ず自分の文化レベルと専門技能を高めなければならないことを、知っている。そのため、彼女と庫さんは専門学校で勉強し、卒業証書を取得した。

 結婚して2年後、2人は健康に恵まれた、かわいらしい男の赤ちゃんを授かった。息子は「弘毅」と名付けられた。庫さんによれば、この名前は『論語』の一説にある「士不可以不弘毅、任重而道遠」(士は以て弘毅ならざる可からず、任重くして道遠し。弘毅は、度量が広く、意志の強固なこと)から取ったのだという。それは、彼らの愛の新しい希望であろう。