特集 (その2)
病魔と命がけで闘った人々
張春侠

イラスト・徐進

 5月12日は国際看護師デーである。この日に、中国赤十字国際委員会は、広東省中医病院二沙分院救急診療科の看護師長、葉欣さんにフローレンス・ナイチンゲール記賞を授与した。この賞の推薦締切りの期限は過ぎていたが、彼女の業績を評価したからである。

 葉欣さんは1956年7月9日に広東省の医者の家に生まれた。1976年から広東省中医病院に勤務し、その仕事ぶりと優れた技術により、4年後、この病院では一番若い看護師長となった。それから23年、ずっとここで働いてきた。

 今年の2月、葉欣さんが勤める救急診療科で、SARSの疑いのある患者が発見された。同僚たちが感染しないようにと、彼女は毎朝、30分早く職場に来て、SARS予防の薬を準備し、それを医者や看護師、職員一人一人に配った。清掃労働者も例外ではなかった。

2003年5月上旬、広州市で挙行された「看護師デー」で、SARSの犠牲となった葉欣さんの塑像が、生前彼女の働いていた場所に置かれ、除幕式が行われた

 そして病室に入る前に、彼女はみなに、さまざまな隔離措置をしっかり取るよう繰り返し言いつけた。その注意深さは「毛を吹いて疵を求める」ほどの細心なものだった。

 SARS患者が絶えず増え続けたため、2月8日から葉欣さんは残業を始めた。仕事が忙しいときは、家族からの電話を受ける時間さえなく、電話を取り次いだ看護師に彼女は「いま仕事中。大丈夫と伝えて」と言うだけだった。そのころ彼女は、一日に数時間しか眠ることができなかった。連日の疲れで、彼女は持病の首、腰、膝関節の病気がいっぺんに起こり、体力は明らかに弱まった。

 2月24日、40歳過ぎの急性腸閉塞の患者が、緊急手術を受けた後、発熱し、肺に影が出るなど、SARSの症状を呈した。すぐに救急診療科に送られてきたが、まもなく呼吸困難に陥った。葉欣さんは疲れてはいたものの、さっそく患者の体温を測り、痰を吸引し、患者に人工呼吸器を付けた。

 あるときには、患者の大量の分泌物が噴出し、彼女の身体に降りかかったこともある。しかし彼女は、感染を防ぐため、あまり多くの人に触らせず、「ここは危ないから、私がやる」と言ったのだった。それを聞いた多くの若い看護師たちは、涙を流した。

湖北省宜昌の農村でも、一家がSARSに感染した。二十日以上にわたる科学的な治療を受けた結果、病状は好転し、子供と父親はすでに退院した

 不幸のことが起こった。3月4日、葉欣さんは発熱し、そしてSARSだと診断された。ほかの人に感染しないよう、彼女は自分で自分を看護すると言い出した。その後、病状がますます重くなり、紙に字を書いて意思疎通する方法しかなくなった。ある日、医者が治療に来ると、彼女は急いで看護師に、紙とペンを持ってくるようにと合図し、震える手で「私に近づかないで、感染するから」と書いた。

 彼女の病状はあまりに重く、多くの専門家が力を尽して治療したにもかかわらず、3月25日、葉欣さんは、彼女の愛した仕事場から永遠に去って行った。この同じ日、彼女が全力をあげて看護したあの腸閉塞患者が健康を回復し、退院した。荼毘に付する前、葉欣さんの夫は、たった一つ、要求を出した。それは彼女を看護師の白衣に着替えさせてほしいということだった。「彼女は看護師の仕事を心から愛していました。こうすれば彼女はきっと喜ぶに違いないので……」と夫は言った。

 SARSと闘う中で、葉欣さんのような医師や看護師はまだまだたくさんいる。広州市第一人民病院の看護師長、張積慧さんは、日記の中に、彼女の身辺で本当に起こった物語をこう書いている。

2003年6月2日、新たなSARS患者が初めてゼロになり、協和病院の医師と看護婦らは、隔離エリアから出て、「SARSと闘う」という記念のTシャツにサインして、成果を祝った

 「趙子文主任は、SARSに感染したある女性看護師を救護するため、呼吸管を挿し込むときには、患者の顔との距離がわずか20センチしかありませんでした。看護師たちは、ウイルスの付いた彼女の痰の吸引をしたり、失禁で汚れたズボンを着替えさせたりしました。『怖くはなかったか』と尋ねられた趙子文主任は『怖くなかったと言えば嘘になるが、患者の生きたいと願う切実な眼差しを見たら、患者の生命を救えないことがむしろ怖いという気持ちになった』と答えたのです。

 また、ある夫は、妻がSARS患者を看護に行くことを知り、彼女に辞職するよう勧めました。しかし彼女は、家族にも隠してSARSエリアに敢然としてやって来たのです。そのうえ彼女は同僚に、もし家族からの電話があったら、『いままでいたのだけれどとか、看護の仕事に行ったとか、言ってください』と頼んだのです」