蘇州河に生きる
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火災から 街を守った消防タワー
             写真陸傑 文・張暁春

 
蘇州河の河辺にそびえる古い消防タワー

 上海市街区の北西部、蘇州河の河辺につづく西蘇州路に、「消防瞭望台」(俗称・消防タワー)がたたずんでいる。1921年に建てられ、上海にのこる旧式の消防タワーの中では、もっとも高い建物である。

 

展望台にのこる回転イス

 当時、ここら辺一帯はイギリス租界で、周りはみな工場だった。火災を引き起こしやすい綿糸紡績工場が、いくつもあった。20世紀初め、工業が発展するにつれ、工場周辺の空き地には、上海の「難民」たちが建てるバラックが現れはじめた。ここは、オールド上海のもっとも有名なバラック地区の一つになった。

 こうした場所に、イギリスの植民者たちが消防タワーを建設したのは、工場の財産を守るためだった。しかし、消火するには費用がかかった。バラック地区で火災があっても、工場に危険がなければ、ふつうは消火しなかった。安全がおびやかされる場合に限り、工場側がみずから出費。それから消防隊が出動し、消防車の入り込めないバラック地区に、竹製はしごを使ってようやく消火作業にあたったのだ。

 こうした旧式の消防タワーは、上海にはわずか三塔しか残っていない。あとの二塔は、虹口と楊浦にある。西蘇州路にそびえるもっとも高い消防タワーには、すばらしい性能と年季の入った風格が表れている。あらゆる門や窓辺の枠には、白いコンクリートの彫刻がほどこされている。鉄鋼製の窓には錆びたあとが見られたが、イギリス式の窓の掛け金は、依然として頑丈である。

古い消防タワーのもとで記念撮影した上海消防三支隊・宜昌中隊の隊員たち

 タワーの下部にある建物の西側は、現在、上海消防三支隊・宜昌中隊が駐在している。その東側には、一般の上海市民が住んでいる。もともと、タワーの展望台へ行くには専用の通路があったが、97年11月、展望台の使用が禁止されてから、専用通路は閉鎖され、展望台へ上るには、四階の民家を通っていくしかなくなった。

 民家を通りぬけると、平屋根にでる。平屋根の上には、展望台へのせまくて急な鉄ばしごがある。専門に訓練をうけた人でなければ、上るのは非常に難しい。下から一段目のはしごが光り輝いていたが、それはここの住民たちが、日ごろから靴を干すのに利用しているためだった。二段目からは、錆びた鉄クズがボロボロと落ちてきたり、はしごが数段、崩れ落ちていたりした。11段を上りきり、頭上にあった床板を開けると、そこが展望台だった。

タワーの自動昇降設備には、錆びたあとが見られた
タワーの窓から蘇州河をながめる

 展望台は円形で、周囲に窓が開かれていた。窓と窓の間のせまい壁には Aいずれも長方形の鏡がはめこまれていた。消防士がどの窓に面していても、鏡の反射であらゆる方角に目を光らすことができるからだ。展望台には、一人しか入れなかった。壊れた回転イスがあったが、まるで古い理髪店で使われる回転イスのようだった。

 上海消防三支隊・宜昌中隊に勤務していた、ある老消防士が思い出を話してくれた。ある年のこと、展望台で見張り番をしていた彼は、ほど近くにある国営第二綿糸紡績工場で、激しい火の手が上がっているのを発見した。消防隊がすぐさま出動、消火作業にあたったために、綿糸紡績工場が管轄していた生地プリント工場の生産ラインを守り抜くことができた。現在、その綿糸紡績工場は不動産開発地として使われている。蘇州河最大の汚染の元でもあった第一プリント工場も、すでに撤去されたのだという。

 古い展望台の周辺は、すでにたくさんの高層ビルで覆われてしまった。消防タワーはその意義を失った。九七年、上層部の決定により、消防タワーは役目を終えることになった。現在、火災情報は、上海の消防総隊(本部)が、コンピューター・ネットワークを通じて警報し、統一化された陣頭指揮をとっている。