天河潭は炭酸カルシウムが岩石を溶かしてできた瀑布だ

「花渓鎮(町)」は、貴州省の省都・貴陽市南郊の観光名所だ。風光明媚な「花渓公園」は、貴州でもっとも美しい山水の公園である。船に乗り、「天河潭」の地下水流を行くと、幻想的な童話の世界が広がっている。「青岩鎮」で、古代の寺院や楼閣などの彫刻を観賞すれば、「石刻芸術博物館」を参観するかのようである。「高坡郷」のミャオ族によるめずらしい洞窟への埋葬は、少数民族の移住の歴史と伝統的な習俗を表している。

 

人を魅了する山水公園

青岩鎮の牌坊にある精緻な石彫

 花渓鎮は、貴州省の省都・貴陽市の南郊外17キロに位置する。その名のように美しい「花渓河」が、麟山や鳳山、亀山、蛇山のふもとを流れ、ここに美しい山水公園を形作っている。

 公園に入ると、澄みきった河川が前方を流れ、柳の木々が両岸をはさみ、深い緑陰を落としていた。「放鴿橋」を過ぎると、両岸には葦がしげり、河の中には暗礁が点在していた。ところどころの小さな滝は、まるで美しい女性が薄絹を洗うかのように、その流れが幾重にも分かれていた。

 石を踏みつつ「桃花灘」を過ぎるときには、水中に小石や水草が見え隠れして、魚が人とともに楽しむかのようだった。

 「放鶴洲」では、ツルがコノテガシワの古木の上を旋回しており、いっそうの野趣が感じられた。花ばたけには1000種以上の花が植えられ、たくさんのチョウを引きつけていた。花渓鎮には200種以上のチョウがおり、中には珍種も少なくないそうである。

 1944年、この公園が創建されたさい、著名な作家・巴金は新妻をつれて、ハネムーンと執筆活動のためにここを訪れた。周恩来、朱徳、陳毅など故人となった国家指導者たちも、かつてこのリゾートを訪れたことがあり、人々を魅了してやまない自然を絶賛する詩を詠じたという。

天河潭の地下水流

高坡郷甲定村のひつぎを置いた洞窟

花渓鎮から西へ13キロほど行くと、そこが石板鎮蘆荻村だ。カルスト地形により、花渓河が珍しい形の瀑布や鍾乳洞、地下水流を作り上げている。

 その昔、この一帯は洪水に遭うたび、鍾乳洞や地下水流の狭い入り口が洪水をふさぎ止めたため、両岸の村や田畑が水浸しになってしまった。地元の政府と観光部門は、1990年から水路を整備し、水害を抑制し、今では面積15平方キロメートルの「天河潭風景区」を開発したのである。

 風景区には、「臥竜灘」と呼ばれる観光スポットがある。大小の滝が折れ重なった岩石の上から、飛沫となって落ちてくる。玉のようにはね飛んで、なんとも壮観な眺めである。炭酸カルシウム溶岩でできた石灰化砂州は、その幅210メートル、中国最長の石灰化砂州であるという。

天河潭の地下水流

 山々を流れくだる花渓河には、中州や堤によってできる激流がじつに多い。河沿いの村人たちは、この激流を利用して、水車やひきうすを装置し、穀物を加工したり、もち米などをついたりしている。河辺では、水車がギーギーきしみながら回転していた。水力によりエネルギー汚染を少なくするという、地元プイ族の昔ながらの習慣を表していた。

 風景区にはまた、花渓河によって連なる湖や地下潭があった。現在、観光客に開放されている「天河潭」は、その洞窟のまわりが高さ数十メートの絶壁だ。岩壁の樹木が青々としげり、その上をツバメが飛び交っていた。「燕臨門」と呼ばれるところだ。

 船に乗って洞窟の中を進んで行くと、この長さ1000メートルあまりの地下水流は、くねくねと曲がり、ともし火がかすかに揺れて、ひんやりした涼しさである。また、珍しい形のさまざまな鍾乳石は、幻想的な童話の世界を連想させてくれる。

 天河潭の後方の出口から出て、岸に上がり、地上の洞穴へと向かった。3層になった地形の内部に相つながる鍾乳洞が、そこの目玉だ。いっぺんに100人が入ることのできる鍾乳洞もあった。洞壁から垂れ下がった「石の花」や「石のカーテン」、天井から吊り下がった「蓮花」「ほら貝」、地面に堆積した「石筍」「宝塔」など、伝説の仙境を形づくるかのような天然の奇景であった。

「石刻芸術博物館」

石板鎮のプイ族の村人たちが、自家製の美酒で遠来の客をもてなしてくれ

 「青岩鎮」は、まわりを青い岩山に囲まれているため、その名がついた。600年前、交通の要衝であったため、巨石を使って城壁を築き、要塞となった。南側の「定広門」は、断崖の上に建てられており、藍天のもとの城楼は、じつに壮観な眺めであった。

 青岩鎮に入り、大小の通りを見渡すと、みな石板でできていた。一部の老舗にあった石製のカウンターは、磨かれてピカピカに光っていた。横町の民家の造りは、石壁に石瓦、石卓、石の腰掛け、石甕、石鉢……と、まるでプイ族の石頭寨(村落)のようである。

 青岩鎮は、よく知られた古い文化の町である。九つの仏教寺院、八つの廟、五つの楼閣、多くの祠堂、書院、府邸(邸宅)、牌坊(鳥居型の門)などの古建築が現存しており、黔文化の特色を表している。地元の著名人・趙理倫を記念するため南街に建設された「趙理倫百歳坊」は、はるか青山をバックにした壮大な造りで、神話の中の「天門」を思い起こさせる。

 牌坊で最も目を引くのは、四本の石柱の下の八つの抱鼓石(門前などに置く太鼓の形をした石造物)だ。ふつうの丸い太鼓型ではなく、一つひとつが石造の獅子だった。表情やしぐさが伝統的な座像の石獅子とは異なり、いずれも頭を下に、尾を上に向けている。まるで柱の上から飛び降りてきたかのような勢いがある。

 寺院や楼閣を参観したさい、案内人に石柱土台(石造の立柱土台)を観賞するよう勧められた。木柱の下に築かれている石柱土台は、木柱の防湿と補強のために用いられただけでなく、装飾の意味もあった。ここの石柱土台の形はさまざまで、よく見られる四角形、六角ひし形、八角ひし形、円形のほかに、鼓形、瓶形、うり形、ひょうたん形、いくつもの瓶や鼓を重ね合わせた形など、その形は30種類以上もあるという。土台に施された飾り模様のレリーフには、菊、ぼたんなどの花や、民間に伝わる縁起のいい福禄寿、古代青銅器に描かれた獣の模様をまねたもの、地元の儺面(おにやらいの面)などのデザインがある。そのため、人々は青岩鎮のことを「石刻芸術博物館」と呼んでいる。

珍しい洞窟の埋葬習慣

花渓公園を見る

 高坡郷は、貴陽市から東南48キロにある村落である。斜面の広がる山々には牧草が生いしげり、夏でも涼しい。

 村の人口は1万7000人、うち76%がミャオ族である。ここの「岩洞葬俗」(洞窟に埋葬する習慣)は、国内外の学者と観光客を引きつけている。

 高坡郷甲定村に入ってすぐ、道路から200メートルの山坂の上に、西南方向に面した馬蹄形の鍾乳洞があった。深い樹木でさえぎられた洞窟の前に着くと、中にはひつぎがいっぱいに置かれているのが見えた。新しいものも、古いものもあり、漆塗りが施されておらず、いずれも「井」形の木枠の中に納められていた。

 洞窟の高さは約10メートル、幅十数メートル、奥行きは200メートルで、400年前から甲定村の王氏の公共墓地となったのだという。最初にここを開いたのが、王氏の2人の兄弟だった。血縁関係を区別するために、兄方の子孫は頭を内側に、弟方の子孫は頭を外側にして、それぞれのひつぎが置かれた。

 洞窟には現在、380あまりのひつぎが置かれている。奥へ行くほど年代は古く、出口に近づくほど年代が新しくなっている。出口に近いひつぎや木枠は、風雨に打たれて腐食しやすい。そこで、現地の規定により、木枠が壊れたら、新しいものに交換することができる。しかし、ひつぎが壊れたら遺体が腐乱し、それが霊魂の昇天を意味するので、ひつぎは二度と交換しない。

 もともと、ミャオ族には霊魂崇拝の観念があり、人の死後も霊魂は不滅だと考えられている。お年寄りが亡くなれば、祈祷師の念仏が示した「風水宝地」(縁起のいい場所)にしたがい、祖霊の地である平地か鍾乳洞に亡霊を呼び戻し、祖先とともに鎮魂する。

 旧習にしたがい、徳と名声が高く、寿命をまっとうした故人だけは、一族の族長会議の同意のもとで、ひつぎを祖霊の眠る洞窟に移すことができる。

 夭折した人や正常な最期をとげられなかった人だけは洞窟に埋葬できず、土葬にされるのだという。

 出口近くで見かけたあるひつぎはとても小さく、他のひつぎとはバランスを欠いていた。聞けば、その中は遺灰であるという。もとは殉職した軍人か、社会に貢献した者だった。一族の族長会議をへて、その遺灰が小さなひつぎに入れられ、この洞窟に埋葬されたのであった。

 こうした祖先の安息の地を、人々はきわめて尊崇している。毎年、故人をしのぶ清明節になると、各家ではみなニワトリ、肉、茶、酒をかつぎ、紙製の幟を立てて、その前で祭祀を行う。異姓である村人は、礼にしたがい墓を保護し、絶対にそれを破壊しない。

青岩鎮ミャオ族の蘆笙(ろしょう)の吹き手(東京大学総合研究博物館・提供)

 調査によると、高坡郷には、埋葬に使われる洞窟の遺跡が八カ所あるという。この習俗の由来について、ある人たちは「ミャオ族のもとの居住地は中原地域である。彼らはのちに黄帝が率いる集団にやぶれて、南方に移動した。しかし人々は中原への帰郷を望んだ。そこで霊柩を運んで故郷に帰すため、故人の遺体を保存する習俗があった」という。

 高坡郷はカルスト地形に属しているため、鍾乳洞が大きく、その数も多い。洞窟の中は暗くて風通しがよく、ひつぎを納めるのに適している。また、かつてはこの地に移住した祖先が洞窟に身を寄せていたので、後世の人々は洞窟を「祖居の地」だと考えている。

 洞窟への特別な感情により、それは村人にとって「故人の安息地」であるばかりでなく、若い恋人たちにとっては、逢瀬の場ともなっている。旧正月の1月4日から8日は、土地のミャオ族の若い男女が盛装し、洞窟内で笙を吹いたり、踊ったりする伝統的な「跳洞節」を行うのである。