蘇州河に生きる
(最終回)
 

変化をとげる下町の石庫門建築
             写真 陸傑  文 劉群

 
上海の石庫門建築群

 石庫門(枠を石で築いた表門)様式の民家は、上海の一大景観であり、この都市の建築文化の重要な構成部分でもある。起源は1853年、「小刀会」という組織の武装蜂起と、1860年の洪秀全率いる農民一揆の「太平軍」の上海進入後にさかのぼる。

 

石庫門建築の一角

 当時、多くの外国人や上海周辺の豪商、役人たちが戦乱を避けるため、上海の一角に逃れて避難所を建設した。戦乱の終息後、それは徐々に繁栄し、多くの人々がやってきては定住し、店を開いた。

 そのため、国内外の不動産業が活発になった。彼らは建設用地を買い、住宅を造った。地価も徐々に高騰した。純粋な西洋式住宅と、伝統的な中国式邸宅を造るために多額の資金をつぎ込んだ。こうして石庫門建築が誕生したのである。

 早期の石庫門民家は、黒いうるし塗りの正門と中庭があり、住宅の奥へ入ると「客堂」(客間)であった。その後ろにはかまどのある炊事場があった。一般的には2階建てで、2階の前方部分は「客堂楼」と呼ばれ、炊事場の上となる後方部分は「亭子間」(上海特有の2階建て住宅の中2階の部屋)と称された。亭子間の上には、さらにベランダが設けられていた。

 石庫門建築の住宅が並んで「弄堂」(横町、「里弄」とも呼ばれる)が構成された。その中間は「総弄」、両側に分かれた住宅の間は「小弄」と、それぞれ呼ばれた。

石庫門里弄の庶民生活

 石庫門建築は、中国と西洋の文化交流と融合の結果である。それは、レンガ・木造、瓦ぶき屋根の中国伝統の建築様式を色濃くのこし、また外来の建築造形を兼ね合わせている。その表面からは、中国とギリシアの古代神話や、中国の青銅器紋様とローマ建築のアーチ構造の柱が見てとれる。そうした閣楼や天窓、レンガ造りの壁、彫刻が施された門の上部、長い弄堂は、人々に深い印象を与える。中国と西洋の紋様がとけあった門の上部には、扁額が掛けられている家もある。

 多くの石庫門の民家には、ガスやトイレ・バスなどの衛生設備がない。キッチンとトイレはいつも共同で使用するのだ。弄堂は狭く、活動するスペースには制限がある。もともと一つの石庫門住宅には、一家族が住めるだけであった。のちに家主による賃貸を経て、さまざまな人が住みつくようになった。「72家房客」(72戸の借家人)という言葉があるが、それはつまり、上海人が狭い石庫門建築を形容したものである。

石庫門建築を改造し、にぎわう商業街の「新天地」

 ここ数年は、毎日のように市の中心部にある石庫門住宅に住む人々が、郊外区に造られた新しい住宅に移住している。毎月のように多数の石庫門住宅がドカン、ドカンと壊されていく。石庫門は、その歴史的使命をほぼ終えたのである。

 上海市政府はこうした歴史文化を重視し、比較的保存状態のよい石庫門建築を一部保護していくことを打ち出した。また、一部の不動産開発業者は、石庫門建築の歴史的文化背景と建築の特色を生かし、それを人気の高い商業街(ショッピング・レストランストリート)へと成功裏に改造している。たとえば、いまや有名な「新天地」などである。