蜃気楼が生んだ伝説

 夏の真っ盛り、ぎらぎらと太陽が輝く酷暑の時期に、北京から飛行機で50分足らず。山東省の煙台国際空港に降り立つと、一陣の涼しい海からの風が出迎えてくれる。するとたちまち旅の疲れも消えうせてしまうのだ。

 煙台は、中国では、夏は涼しく、湿度の低いところの一つである。それは煙台の恵まれた地理的位置のお陰だ。煙台は山東半島の中部にあり、黄海と渤海に面している。夏は、東南方向から吹いてくる海風が、威海を経て煙台に達するころには、ほとんど水分がなくなっている。しかも煙台は中緯度の、大陸性の温帯季節風気候帯に属し、冬は厳しい寒さはなく、夏は酷い暑さがない。年間の平均気温は12・5度で、住みやすい気候なのだ。

煙台の耀華国際教育学校は、英、米、オーストラリアの国家教育体系と連結している(同校提供)

 煙台の西北70余キロにある蓬莱は、煙台地区に属する海浜の小都市である。ここでは蜃気楼が発生する珍しい環境のため、古代には「仙境」と呼ばれた。当時、蜃気楼が海中の仙山や山上の仙薬などの神奇な風景を作り出したため、秦の始皇帝や漢の武帝は頻繁に東に巡幸し、不老長寿の薬を捜し求めたのだった。

 秦朝の方士、徐福は、皇帝の命を奉じて、三千人の童男、童女と諸々の匠を率い、五穀の種子を携えて舟に乗り、東へ船出した、と伝えられている。徐福に関しては、日本でも徐福研究会が結成され、その研究が始まっている。

 丹崖山の上に建つ蓬莱閣は、有名な景観である。民間伝説の中で出てくる「八仙」は、ここに相集い、ここから東に海を越え渡ったという。

 蓬莱閣の東側には、中国の古代から保存されてきた最古の海軍要塞の一つ「水城」がある。明代の民族的英雄である戚継光父子がここで水軍を訓練し、倭寇を撃退した。

 煙台地区にはまた、大小百以上を数える名勝古跡がある。たとえば北魏の著名な書家、鄭道昭の親筆の石刻、「民間の小故宮」と言われる中国北方では最大規模の、もっとも良く保存された封建地主の荘園である「栖霞牟氏荘園」などである。

 これに加え、煙台には長くて美しい海岸線があり、そこに数十カ所の自然の海水浴場があちこちに点在している。

最初に開放された港の一つ

 煙台は昔、芝罘と呼ばれた。ここには約2万年前に人類が生息、繁栄していたことがわかっている。3000年以上前の夏、殷(商)の時代以来、中国の歴代王朝はここに対する統治を極めて重視してきた。『史記』の記載によると、秦の始皇帝は中国を統一した後、3回も芝罘半島に上陸し、不老長寿の薬を探し求めたという。また漢の武帝も芝罘に光臨し、天子に即位する大礼を行った。

黄海に面して開発された煙台経済技術開発区は、21世紀に中国が重点的に開発する渤海経済圏の中で、重要な成長地点となろう(同開発区提供)

 紀元631年には、日本からの最初の遣唐使も芝罘半島に上陸した。現在も、多くの国々が使っている海図には、依然、煙台のことを「芝罘」と表記している。

 「先に芝罘ありて、後に煙台あり」というように、1398年(明の洪武31年)、倭寇の襲来を防ぐため、芝罘に「狼煙カユ台」(のろし台)が築かれ、「狼煙台」とも言われた。これが「煙台」の名の由来である。

 昔から煙台は、商人が雲集する商業の盛んな都市であり、貿易港であった。歴史資料の記載によると、2000年以上前の春秋時代、ここは五大港の一つであった。隋唐時代には、ここには中国北方で一番大きな港である登州港があり、高麗や日本の使節が往来し、商業貿易が行われる重要な港湾だった。中国の絹織物、冶金、製紙などの技術が煙台から朝鮮や日本などに伝えられた。このため煙台は「海のシルクロード」の東方の起点と称せられる。

 アヘン戦争以後の1861年、煙台は開港と通商を迫られ、英、米、独、仏、日、デンマークなど17の国々が相前後してここに領事館を設立し、産業を興した。これによって煙台は、中国近代で最初に対外開放された港湾の一つとなった。今でも、煙台には、外国の領事館、別荘、公邸など30以上の近代ヨーロッパ風の建築物が残っている。

 開港後、大量の外国の品種が煙台に入ってきた。たとえばナシ、サクランボ、リンゴ、ブドウなどである。今では、煙台のいくつかの農村が、「ナシの里」とか「ブドウの里」とか「リンゴの里」とか呼ばれている。

 アジア最大のリンゴの交易センターである煙台栖霞リンゴ卸売市場は、毎年、15万トンのリンゴを東南アジアに輸出し、東南アジアのリンゴ市場の30%を占めている。19世紀に、煙台に根を下ろした張裕葡萄酒公司は、煙台でもっとも有名な企業に成長し、煙台は「国際葡萄酒の街」という名誉ある名前を獲得している。

煙台市内には、海に面して静かで清潔な住宅が立ち並んでいる

 開港から140年以上経ち、今日の煙台地区はすでに中国北方で生き生きと活動する港湾都市の一つとなった。煙台地区の長い海岸線にある九カ所の港は、年間取扱量が2300万トンに達する。このうち煙台港だけで1250万トンで、中国の十大商業貿易港の一つに数えられている。港を通じて煙台は、百以上の国々や地域との直接通航を実現するとともに、米国のサンディエゴ市、日本の別府市、韓国の群山市などと友好都市関係を結び、日本の宮古市とは友好協力都市関係を樹立している。

 さらに注目すべきは、北は黒竜江省の同江市から南は海南省の三亜市に至るまでの全長5500キロの高速道路が、煙台の経済技術開発区を貫いて走っており、これによって煙台が中国を南北に結ぶ交通の要衝の一つになっていることだ。今まさに建設中の煙台と大連を結ぶフェリーが開通すれば、東北地方から長江デルタ地帯まで行くのに、陸路に比べ400から1000キロも短縮される。

外資系企業の投資ブーム

清の雍正年間に建設が始まった牟氏荘園は、完全な姿で保存されている地主の荘園の一つで、総面積は2万平方メートルもある

 「煙台はソウルまで非常に近く、飛行機に乗れば一時間かからないので便利です。気候や文化、生活習慣も、ソウルと煙台はだいたい同じ。だから煙台は、故郷にいるような感じです」。韓国大宇重工業煙台有限公司総経理の蔡奎全さんは、中国語でこう言った。

 1996年に、韓国の大宇総合機械株式会社が投資して興した韓国大宇重工業煙台有限公司が正式に操業を始め、主にショベルカーとフォークリフトを生産した。2000年からは、大宇のショベルカーは、中国市場でのシェアが一位となり、煙台経済技術開発区を牽引する企業の一つとなった。2003年の上半期だけで、販売額は21億元に達した。

 「大宇の煙台公司が今日のようになれたのは、開発区当局の全面的な支持と不可分です」と蔡総経理は言った。創業して間もないころ、この公司は販売不振、資金の欠乏の苦境に直面し、労働者の半数をレイオフするという事態になったことさえあった。こうした状況に対し開発区当局は、主体的に、関係部門との協議に乗り出し、この公司が銀行ローンを借りるのを助け、関税の納付を緩め、無料でこの公司の製品の宣伝活動を展開したのだった。

 いま、蔡総経理は、開発区に深く感謝している。帰国するたびに、親しい友人に煙台の状況を紹介し、中国に来て企業を発展させないかと誘った。彼の熱心な勧誘によって、すでに十数社の韓国企業がこの開発区で投資している。また、大宇の煙台公司は、2001年から2003年まで計200万元を「希望工程」(貧困地区の教育支援)に寄付したうえ、2004年から2010年まで、公司が利益をあげた場合は毎年、「希望工程」に50万元ずつ寄付をする約束をしている。こうしたことによって蔡総経理は「煙台栄誉市民」の称号を授与された。

 蔡総経理とは対照的に、煙台首鋼電装の副総経理の山本誠さんは、来たいと思って煙台に来たわけではなかった。当初、彼は自分が中国に派遣されることは知っていたが、どの都市に行かされるのかは知らなかった。彼の頭の中にある中国に関する知識は、わずかに古代の文学作品の中から得た少しの記憶だけだった。しかし煙台に来た後、彼はびっくりした。「ここの工業発展は非常に速い。まるで日本の昭和30年代のように、毎日、毎日、すべてが変化している。最初考えていたのとはまったく違う」と思った。

 中国に来てから後の印象について山本さんは、雄弁に語る。指を折りながら、これまでに訪れた中国の都市を数え挙げた。北京、上海、広州、西安……この5年で、彼はほとんど全中国を歩いている。

 しかしこうした都市より、彼は煙台の開発区が好きだという。「道路は広いし、きれいだ。人もそれほど多くはない。どこの都市に行っても、煙台に帰ってくると、自分の家に帰った感じがする」というのである。

自動車用エアコン系統の生産を主とする煙台電装有限公司(同開発区提供)

 開発区は煙台市の西部にある。日本、韓国は海を隔てた向こう側にあり、交通だけでなく生活習慣、投資政策もまた、韓国や日本にとって魅力が大きい。「開発区の1700以上の登録企業中、70%は外資系企業であり、韓国と日本がそのうちの半分以上を占めている」と開発区管理委員会の王秀臣主任は述べた。

 開発区は1984年に創建された、中国で最初に開設された14の国家クラスの開発区の一つである。最初の計画は36平方キロに過ぎなかったが、現在は220平方キロにまで拡大している。自動車製造、電子情報、食品加工は、開発区が力を入れてつくりあげた三大重要産業である。現在、韓、日、米、独など二十数カ国と地域がここに投資しており、この中には世界ベスト500の企業だけで二十社に達する。

 開発区の大通りには、いたるところに「白頭山」とか「漢拏山」といった朝鮮・韓国風の店の名が見られる。週末にゴルフをしにやってくる韓国人を除き、開発区に長期間居住し、生活している外国人は千人以上いる。もっぱら「小さな留学生」のために開設された耀華国際教育学校は、すでに外資系企業の要求を満足させることができなくなっている。

 しかし、新しい国際学校と外国人用の病院は間もなく使用できるようになる。多くのバーやダンスホールや全長1キロの喫茶店街も現在、建設中。「開発区を外資系企業の投資のホットスポットにするだけでなく、生活のパラダイスにもしなければならない」と王主任は言い、開発区の前途に自信満々だ。