私のふるさと、広東省の蕉嶺県藍坊鎮藍坊村は、山々に抱かれた客家の住む村である。渓峰河という河川が、村の中をくねくねと流れている。山に寄りそうようにして建つ民家や学校を合わせれば、外観はまるで南北方向に置かれた、縁起もののヒョウタンのようである。

 そのヒョウタンの東北角にある「鉅美堂」(鉅美とは、先祖・丘鉅美を指す)は、いまから百四十年前に建てられた、わが一族の旧家である。正門を入ると、東西の中軸線に沿って、順に下庁堂(広間)、長方形の中庭、上庁堂、後室、後門が並んでいる。中庭の両側には、側庁(庭をはさんで両わきに向かいあった広間)一つずつと、廂房(側庁と同じように向かいあった建物)が四つある。

 上庁堂には、両わきにそれぞれ通り道があり、南北二つの中庭と二階建ての横屋(両わき奥にある建物)に通じている。それは1階と2階にある40もの部屋と、大小の庁堂、廊下、中庭をぐるりととり囲んでいる。その配置は正確かつ対称的で、外観も堂々としている。まるで官邸の殿堂のような民家であり、人々からは「殿堂式の囲屋」、略して「囲屋」と呼ばれている。

 北の入り口を入り、北横屋の外側にある六つの部屋が、懐かしいわが生家である。一階のいちばん外側にある部屋「口唇間」が、客間である。テーブルや籐いす、竹製ベッドなどが配されている。夕食を終えると、入浴してきた兄弟や親戚たちが下駄をはいてやってきて、茶を飲みながら世間話に興じたものだ。木工職人の安開おじいさんは、ときおりここで伝統楽器の二胡をひいた。三弦や古筝が好きな私の父と、客家地方で流行していた「漢堂音楽」という楽曲を合奏したのだ。

1980年代、北横屋に隣接してわが家の新しい家屋が建てられ、さらに広く、明るくなった

 口唇間の隣は台所である。前後あいつながっている二つの大きなかまどがあって、柴草などのたき物を置くと、台所のほぼ半分が埋まってしまった。前のかまどはご飯をたいたり、おかずを作ったりするところ。後のかまどは余熱を使って湯を温めるところであった。食器棚には漬け物を入れていたので、ゴキブリをよく誘いこんだ。私の母は、その害を利に変えていた。ゴキブリがはい出す夜になると、松明をあげ、ゴキブリをたたきつぶした。それは、アヒルの格好の「夜食」となった。

 台所の東隣はもともと「小庁」と呼ばれる広間で、わりあい広々としていたところだ。そこを豚小屋に改造し、注意深く雌豚を飼育した。雌豚は1年に2回、子豚を産んだので、「農家のミニ銀行」とよく呼ばれていた。雌豚の飼育や、松やにの採集などの収入で、私たち六人の兄弟姉妹はそれぞれ中学を卒業、いちばん上の兄と私は大学にまで上がったのである。

 2階の口唇間は両親の寝室で、外側へ開く北窓と、直径30余センチの丸窓があった。明かり取りと風通しの窓である。聞くところによると、丸窓は厄を払い、野獣を脅かすことができるそうだ。通りに面した丸窓からは、戸外をじゅうぶん見渡せた。もし、匪賊がやってきたとしたら、それは射撃の「銃眼」になった。

 母が野良仕事に出かけるときは、鍵をかけたその寝室で、私たちを遊ばせておいた。帰宅する母の姿が丸窓から見えると、窓に集まり歓呼した。そして、争うように門を出たのだ。

 口唇間の隣室が、いちばん上の兄と私の寝室だった。まだ覚えているのは、中学一年の春節(旧正月)前夜、私の母とすぐ下の妹が、階下の台所で「煎バン」と呼ばれる食べ物を揚げ、香ばしいにおいがプンプンと漂ってきたことである。煎バンは、黒砂糖水にもち米の粉を加え、丸くこねて、油で揚げたものである。保存がきく黄金色のその食べ物には、甘さと香ばしさがいっぱいに詰まっていた。客家人にとっては、春節の祭祀や客の接待、贈り物の必需品である。家族が多いと、4、50斤(1斤は500グラム)も揚げていた。

 あのころの私は、夜になると灯火の下で古典名著の『水滸伝』を読みふけっていた。夜も更けると、母はお碗に入れた煎 をすぐ下の妹に運ばせた。私はそれを食べながら読書にふけり、明け方になるとようやく休んだ。これは思い出の中で、もっとも甘く美しいふるさとの夜である。

 2階の小庁は倉庫であった。もみ米や米、各種の雑穀や食べ物を蓄えていた。春節の前後になると、倉庫にはおいしいものがしまわれていた。母が倉庫の鍵を開けるときにはいつも、私もいっしょに中へ入った。高い梁に掛かる「ルゥオグウ」(竹で編んだ円形二層のかご)の中の食べ物は届かなかったので、床に置かれたカゴや食器の中から煎 や揚げた肉団子などを探して食欲を満たしたのである……。

 一族が集まり住んだ鉅美堂は、安全で、温もりがあった。囲屋の庁堂や廊下は、共同で使う場所であり、とくに広々とした上庁堂は、子どもたちの格好の遊び場だった。息子が妻をめとるとき、そこで天地を礼拝し、客をもてなす宴を開いた。娘が嫁に行くときは、そこで頭に赤布をかぶり、団らんの象徴である「大円ヘン」(大きな丸い額)を踏んでから家を出ていった。老人が亡くなったときは、そこはすなわち故人を悼む霊堂となった……。

 現在、若者たちは、新築された洋風家屋に移り住み、上庁堂も年月とともに古びてしまった。しかし、かつてはここに一族が集まっていた。楽しく過ごした庁堂は、私にとって忘れられない記憶となって刻まれている。

 美をめでる心は、みな持っているものだろう。まだ3、4歳であった私も、あろうことか自分を誉めてほしいと望んでいた。玉雲おばさんに会うといつも「桓ちゃんが大きくなったら、どんなに醜くなるかしらねえ!」とからかわれていた。私は口をとがらせて泣き叫び、「桓ちゃんはハンサムになるよ」と言うことばを聞くなり、笑ったという。また、玉雲おばさんは私がすぐ下の妹の繁英をつれて庁堂で遊んでいると、繁英を指して「これは私の娘だよ」と言いながら、抱き去ろうとした。驚いた私は、妹をしっかりと抱きかかえ、放そうとはしなかった。「繁英はボクの妹だよ」。繁英と桓興は、方言では発音が似ている。聞くところによると、妹の名前は私が呼び習わしたために付けられたそうだ。

 このたび里帰りをし、91歳と高齢になった玉雲おばさんに会ったが、耳も目もまだまだしっかりしていた。仕事も少しできるので、私も非常にうれしかった。おばさんに言った。「いまでも覚えていますよ。毎朝起きると、台所へお碗を持っていき、あなたからふかしたてのサツマイモをもらったのです」。「もう忘れてしまったよ。そんな昔のことをまだ覚えているのかい?」と彼女は手を振りながら言った。

【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。