【上海スクランブル】


開港160年によせてシャンハイ 道の物語
         
                    須藤みか


  いま、この原稿を書いている2003年11月17日、160年前のこの日、上海港は正式に開港した。

 上海を伝えようとするとどうしても、新しいことや変化ばかりに目が行ってしまうけれど、たまにはむかしの話もよいもの。今回はオールドシャンハイの街の話といきましょう。

「外灘」と名付けた人は

大馬路・南京路の一部は歩行者天国に

 今回、開港160周年を記念して、各新聞が記念別刷りを発行したのだが、なかなかどうしてどこも気合いが入っている。昨夏創刊したばかりの朝刊紙『東方早報』は通常のページをはるかに超える160ページ立ての厚さで、雑誌も顔負けの豊富な内容。160年の歴史のなかで選んだ歴史に残る十人の女性たちの物語を編んだのは朝刊紙『新聞晨報』の「160年最上海」。160年のなかのキーワードや、近代から現代までの上海出身の傑物などを紹介した週刊紙『申江服務導報』の「160」など、各紙それぞれに興味深い。

 そのなかでも特に関心を引いたのが、『申江服務導報』にあった、道の名にまつわる物語だ。

 上海を代表する観光スポットで、建築群が国家重点文物保護単位となっている「外灘」は、1843年の開港から2年後に英国の居留地となった。当時の英語名は「The Bund(バンド)」。港の海岸通りを意味する言葉として名付けられた。では、「外灘」はどこから出てきたかというと、上海人がつけた呼称で外国灘を縮めたものだという。現在は中山東一路という道路名があるものの、外灘のほうが定着しているのはネーミングの絶妙さからだろうか。

有名なレストレンが並ぶ九江路

 バンドから、英国人が開いた乗馬場(今の河南中路交差点)への道として作られたのが、いまの南京東路だ。乗馬場の中心には花園があり、この花園へいたる道としてPark Lane(派克路)と言われ、中国人は花園弄と呼んだ。この道は延長され、それと同時に道幅も拡張されて、乗馬だけでなく馬車も通行できるようになる。花園がその後移転し、1865年に道の名も南京路に改称され、静安寺まで延長した。ちなみに、道のことを中国語で「馬路」と言うのも、実はこの乗馬場への道路建設から来ているようだ。

四馬路以外に、ニ馬路、三馬路も

いまは部品店などが並ぶ漢口路

 この南京路は、「大馬路」あるいは「十里洋場」とも呼ばれ、上海最初の商業街を形成した。20世紀に入ると、先施、永安などのデパートがここに次々にオープンしている。

 大馬路に平行する形で走る道はそれぞれ、二馬路、三馬路、四馬路と呼ばれた。♪夢の四馬路(スマロ)の街の灯〜というディック・ミネの歌詞は聴いたことはあったが、うかつなことにその四馬路がどこにあるか気にしたことはなかった。読者諸兄はご存知でしょうが、四馬路とはいまの福州路だったのですね。で、南京路から数えて二番目の九江路が二馬路、三番目の漢口路が三馬路なのでした。

 二馬路は南京路ほど有名ではなかったが、上海最初の証券取引所ができたのはここだし、にぎやかな歓楽街でもあった。現在も上海蟹で有名な老舗「王宝和」系列のホテルや、同じく蟹料理で有名な「成隆行」などが立ち並ぶ。

 三馬路、漢口路のもとの名は海関路で、いまもむかしも税関の建物がある。近代中国でも最も歴史の長い新聞『申報』の社屋や、京劇の劇場「大劇場」などが連なったが、現在は部品卸の店などが立ち並ぶ。

「夢の四馬路」と歌われた福州路

 そして、南京路に次ぐにぎやかなストリートだった四馬路。福建路を越えて西に向かって、茶館や妓楼などが集中したそうで、いまの外文書店のある場所などには「青蓮閣」という上海でも有数の店があった。

 しかし、東に行けば出版関係の会社や文具店などが百軒近く集中。それも、英国人宣教師が中国最初の機械による印刷所を1843年に設立したのが始まりだとか。その時代の文化人が集まった四馬路はいまも、上海最大の書店「上海書城」や文房四宝店など文化街として健在である。

 刻々と変貌していく上海の街。変化に目を留めるとき、百年前の上海にも思いを馳せてみれば、また別の上海の物語が見えてきそうだ。