スプーンで取り分ける

                  
 
 
古代の飲み方

 古代には、お茶は薬であり食物でした。一体いつから飲むようになったのでしょう。

 中国は広大な国ですから、いつ頃から飲まれるようになったのか、またどの地方から飲み始めたのかはよく分かりません。前回読んだ杜育の「セン賦」が二世紀末期に書かれたと考えると、後漢から三国時代には飲んでいたと思われます。

 しかし、杜育のように茶をたしなんだ人はまれだと思われます。では一般的にはどんな飲み方だったのでしょう。

 三国時代魏国の張ユウ(230年前後)著『広雅』には、「荊巴(現在の湖北省と重慶市)の間の地方に、葉を採集して葉の餅を作る。老いた葉で作った餅は米で固める。煮る前に、まず赤色になるまで、火で炙る。それから、粉々にして茶器に入れて、お湯を注ぐ。葱、生姜、みかんの皮を混ぜる。これを飲むと、酒の酔いが醒め、眠れなくなる」というように、酒の酔いさましとして茶を飲んだことが書かれています。

 また『三国志』「呉書・韋曜伝」のように、酒の代わりに茶を飲んだという記述があることから、この頃からすでに茶は一種の飲料となっていたことが推測されます。

 また『広雅』には「茶を煮て飲もう」と書かれていることから、当時は「煮る」という方法で茶を飲んでいたと思われるのです。このような飲み方は一般的に非常に長く続きます。少なくとも唐代までは続いていたようです。ですから杜育のようにお茶を飲むことに水や茶器まで考えていたというのは、一部の文人や上流階級の人に限られていたようです。しかし、それはお茶の発展にとって重要なことでした。

唐代の飛躍

 唐代中期には、茶を飲む風習が全国的に普及したと陸羽『茶経』「六之飲」に書かれていて、「唐朝は茶を飲むことが流行りだし、盛んになった。二つの都から湖北と湖南までの間にどの家でも飲んでいる」とあります。

 『封氏聞見記』には、「南方の人はよく茶を飲んでいたが、北方の人は、最初飲む人があまりいなかったのである。開元中期、山東から都まで多くの茶店が茶を煮て売っている。道行く人たちは皆お金を払って、飲んでいる。……昼から夜まで飲んでいるので、ほとんど一般的な風習になった。中央で盛んになってから、辺境地域まで伝わったのである」と書かれています。

 『旧唐書』「李玉伝」にも、「茶は米や塩と同じように日常的な食物になった。どこに行っても同じ様な飲用風習である。また、茶は米や塩と違って、疲れを取る効果があるから、非常に重要な飲み物となったのである。特に民間でよく飲まれている」等の記述が見られます。

 盛唐の詩人儲光羲(701〜763)は次のような詩を書きました。

  茗粥を吃するの作
 
 当昼暑気盛、 当に昼の暑気盛んなり、
 鳥雀静不飛。 鳥雀静かにして飛ばず。
 念君高梧陰、 君を念う高梧の陰、
 復解山中衣。 復た解く山中の衣。
 数片遠雲度、 数片遠く雲は度り、
 曽不避炎暉。 曽つて炎暉を避けず。
 淹留膳茗粥、 淹留茗粥を膳し、
 共我飯蕨薇。 我と共に蕨薇を飯す。
 敝廬既不遠、 敝廬既に遠からず、
 日暮徐徐帰。 日暮徐々に帰る。

【通釈】
 昼頃に暑気が盛んになって暑く、
 鳥も静かにして飛ばない。
 高い木の陰で君を思いながら、
 暑くなってきたので山中の衣を脱ぐ。
 数片の雲が遠くに行ってしまい、
 暑い光を避けることが出来ない。
 残った茶葉で茶粥を作り、
 ご飯とおかずと一緒に食べる。
 粗末な我が家はもう遠くなく、
 夕暮れにゆっくり帰る。

 この詩を読んでみると、茶粥として食べていたことが分かります。ですから一般的にはお茶は食用であったり飲用であったりしていたのではないでしょうか。

 当時の人々が一般にどのような飲み方をしていたかは、確実な資料はありません。しかし、宮廷においての様子は、『宮楽図』の中に描かれています。それをみると、スープのようにして鍋からスプーンで取り分けて飲んでいる様子がわかります。現代のお茶を飲むという考え方とは大きく違うことがわかるのです。

 
中国茶文化国際検定協会会長、日中友好漢詩協会理事長、中国西北大学名誉教授。漢詩の創作、普及、日中交流に精力的な活動を続ける。