【放談ざっくばらん】


大地と心に友好の樹を植える

                     (北京東方之星総合企画 代表)李建華


 

 『ぼくらの村にアンズが実った』が日本経済新聞社より出版された。著者はNGO「緑の地球ネットワーク」(GEN)事務局長・高見邦雄さん。

 4年前から配信しはじめたメールマガジン「黄土高原だより」をもとに加筆してまとめた本書に、彼とGENの人々が、黄土高原のはずれにある大同で、植林のために10年の間、いかにして艱難を乗り越え、現地の村民たちと無理解から相互理解へ、そして今のような密接な協力関係になったかという過程が記録されている。独自の視点でさりげなく読者に語りかける爽やかな口調の裏に、深刻な環境問題や反省させられるべき指摘が随所に伺われる。

 240万年前から、西域の砂漠などの土が風に運ばれて厚く堆積したという黄土高原は、黄河の中流に位置し、陝西・山西・河南・甘粛・青海・内蒙古・寧夏にまたがり、面積はおよそ50万平方キロである。

 高見さんらが緑化協力事業の活動を実施する大同は黄土高原の東部にあり、魏晋南北朝時代に五胡十六国の中から鮮卑族拓跋部が伸張して386年に北魏を建国し、平城京として栄えた地である。

 むかしの黄土高原の自然環境は古代文献の記載や考古発見では、今日より遥かによかったようだが、『山西通志(第9巻)林業志』にある山西省の森林被覆率の歴史的な推移をみて、実に驚いた。秦以前は50%、唐・宋は40%、遼・元は30%、清は10%未満だが、1949年新中国成立時はなんと2・4%になった。

 その通りだと、黄土高原の自然環境が悪化しつづけた主因は明らかに人類の非合理的行為によるものである。都市の成立による人口の集中、食糧生産のための耕地の造成、レンガ焼成や金属精錬のための森林伐採、生活燃料としての柴の利用、過剰な放牧、繰り返された戦火など人為的行為が、黄土高原をとうとう中国の経済文化の中心的地位から、今日の大多数の貧困県が集中する地域にまで転落させてしまい、そして貧困がさらに環境破壊を加速させ、ますます悪循環に陥った。高見さんがいう「文明のまえには森林があり、文明のあとには砂漠が残る」心情が、しみじみと痛感させられる。

 大同市は四つの区と7つの県を管轄し、平均海抜は900〜1500メートル、年間降水量は380〜460ミリ、旱魃・風砂などの災害も多い。地元では「山は近くにあるけれど、煮炊きに使う柴はなし。十の年を重ねれば、九年は旱で一年は大水」や、「風が一年に一度吹き、春に吹き始めて冬まで吹く」、「ひと雨降れば土が逃げ、肥料が逃げ、作物が逃げる」などといわれるように、黄土高原の自然環境が劣悪なほどいかばかりかは、本書からもその一端が伺える。

『ぼくらの村にアンズが実った』の表紙

 この厳しい環境と深刻な状況を前に、初めは資金不足で困ったにもかかわらず、1992年1月にあえて手探りでスタートした。しかし、最初の地、渾源県と霊丘県に臨んだ最初の5人が、結果的に「賢い順にいなくなり、最後にいちばんばかで、逃げ足の遅い人間が残った」。それよりもっと困ったのは、その後、94年の春に6万本のアンズを植えたが、2年後に来てみたところ、死ぬものは死に、枯れるものは枯れ、生きているものはほとんどなかった。

 失敗は彼に大きなショックを与え、夢が砕け散った思いをさせた。あまりの大きなショックに、数年後NHKが取材に来たとき、その失敗の経験を現場の畑でテレビカメラにむかって話しているうちに、悔しさと悲しさで高見さんは大泣きした。つらかっただろうね。

 ぼくは高見さんと74年に知り合ってまもなく30年になる。事業開始以前から彼と、何博伝氏の独特な観察眼と優れた鋭い分析をもった『山オウ上的中国』(日本語版『中国・未来への選択』)をめぐって話しあい、また緑化の協力事業について話し合うことがあった。

 でも、彼の決意と気持ちがわかったのは、94年の春か夏に、高見さんが書いた『小老樹』と題する文章を中国語に翻訳した時だった。小老樹とは、後の60年代に「南の湛江、北の雁北」と呼ばれるようになった全国の植林運動のモデルとして、50年代初頭に植えられたが、水不足のために伸び悩み、途中からねじ曲がったポプラのことだ。その小老樹はよく地元の人間のあいだで失意に陥ったり、傷ついたりするときの喩えに使われるが、高見さんは逆に、大きく育たない「小老樹」のようになっても、つぎの世代のために、多少でも土を肥やすことができれば、それでいいという「信仰告白」までした。

 このことから、この人ならどんなひどいことに遭わされても最後までやりぬくだろうと思った。以後話し合ったり飲む度に、話題はいつも現場の近況をめぐることだった。

 弊社「北京東方之星総合企画」は、1997年から協力事業に参加するようになり、ぼくが彼らの事業現場に行ったのはだいぶ後のことで、事業が既に成功の軌道に乗りはじめた2000年4月の1回だけだった。さまざまな失敗を前にして、もうやめようと思ったことが何度もあったはずだが、九仞の功を一簣に虧くことがなく、根気よく頑張り続けてきた高見さんに心から拍手を送りたい。失敗を正直に認め、その中からいろいろ学んできたおかげで、今日のような成果が生み出されたのではなかろうか。

霊丘植物園で植林活動を行う「緑の地球ネットワーク」のワーキングツアーのひとたち(写真・橋本紘ニ)

 もちろん、その苦労はとても一言では言い尽くせない。一年のうち3分の1の時間を大同で過ごし、農村という農村を歩き回り、この地の自然環境と社会・人情を理解し、農民との交流を深め、この地方に合ったさまざまな緑化の方策を模索してきた。しかし、気を落とさず、心の底からの誠意と実際行動によって、現地の幹部と大衆の理解と信頼をかちとり、多くの日本の団体と人々の道義的、資金的、行動の面で幅広い支持を受けました。

 99年に入ってから、成果がやっとみえはじめた。現在まで11年も努力を続けた結果、「黄土高原地球環境林」「桑干河青年林プロジェクト」「カササギの森」などの活動を繰り広げ、造林4000ヘクタール、植樹千500万本の成果をあげた。

 地元の農民に「老高」と親しまれている。地道な活動は内外から高く評価され、2001年に中国政府から「友誼賞」、2002年に中華全国青年連合会から「母なる河を守る行動国際協力賞」、大同市政府の「環境緑化賞」、2003年に朝日新聞社から「明日への環境賞」など多くの表彰を受けました。これらの受賞は、高見さんにはまったくふさわしい。

 「中国では万事は始めるのが困難だというが、私は反対だ。始めるのは簡単だが、過程は難しく、結果を生み出すのはもっとも難しい。植樹もまさにそうだ。植えるのは容易だが、成功させるのは簡単なことじゃない」と高見さんは言う。

 中国で事業を成功させるためには、自然条件・生態環境、人的な要素という三つの要素が大切だ。ある意味では人的な要素は最も重要だ。事業の中で、地元に元渾源県の林業局長温増玉さん、大同県徐メ郷の党書記李子明さん、94年7月に設置された緑色地球網絡大同事務所初代所長祁学峰さん、事業に熱心でしかも早口で相手にスキを与えない現所長武春珍さん、現地の技術顧問・生き字引の侯喜さんらのような中国の方々、そして協力事業に方向づけをし戦略的指導にあたった立花吉茂さん、毎年2カ月以上大同に滞在し植生などの調査研究を続けた遠田宏さん、菌根菌の接種指導にあたった小川真さん、林野庁のOB、北京林業大学で留学中の相馬昭男さんらの専門家、現地の農村を走り回って写真に記録した橋本紘二カメラマンらのような日本の方々から、多大な理解と支持がなければ、高見氏らの事業は今日のようなすばらしい成果を上げられなかっただろう。

 毎年、GENの呼びかけで造林活動にかかわる参加者は増えつつあり、活動の舞台もだんだん広がり、地元の人たちとともに汗を流した日本人は千五百人以上に上った。「土地柄、貧乏さ、ひどい天候、どれをとっても好きじゃない」と言い続けてきた高見さんは、次の世代のために多少でも土を肥やすことができればという「小老樹」のように、いまやすっかり黄色い大地に溶け込んだ。

 ふりかえってみると、大変苦労をしたが、高見さん、しあわせだね。

 特に中日関係が時として起伏のある今日に、高見さんらが掲げた「大地に樹を植え、人の心に樹を植える」ということは非常に重要だ。「友好」を盛り上げるための形式的なものより、ずっとあとに茂る森こそ最高の記念碑だ。高見さんらのこの種の方式の民間交流は、中日両国人民の相互理解を促進する上できわめて貴重な経験を提供してくれた。来年の今頃に、『ぼくらの村にアンズが実った』の中国語版ができることだろうが、私と同様の感動を中国の多くの読者と分かち合いたい。(本稿は、日本語でご寄稿いただきました=編集部)