王朝街道
黄土の大地に息づく王朝文化

                                    

函谷関

 黄河の中・下流に位置する中国・河南省は、数多くの王朝を育んできた「中原」の地であり、王朝の地でもある。洛陽には夏、商(殷)、東周、後漢、三国時代の魏、西晋、北魏、隋、唐など計十三の王朝の都が置かれた。また、開封には戦国時代の魏、北宋、金など計七つの国の都が置かれ、鄭州にも商の時代に一度、都が置かれたことがある。中国七大古都(北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封、安陽)のうち、三つまでが河南省内にある。陜西省西安から河南省の古い都市を巡るルートが、「王朝街道」と名づけられたのはこのためである。  

自然と歴史の宝庫

竜門の石窟、奉先寺

 三門峡 河南省の北西部にある街。川底から三つの岩(人、鬼、神)が突き出ており、流れは三筋に分かれて、急流になっている。三門峡が難所だったので、歴代の王朝は、交通、輸送の不便に苦しんだ。新中国になって、黄河治水開発綜合計画の一環として、ここに治水、灌漑、発電、舟運のための多目的ダムが建設された。ダムが完成すると同時に、河南、陝西、山西の三省にまたがる、日本の琵琶湖の三倍半にも及ぶ大きな人工の湖ができた。

 西の郊外に、日本の唱歌『箱根八里』で「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず」と歌われた函谷関がある。ここは、西安と洛陽の間を結ぶ要路にあり、両岸が切り立った谷の底に位置している。その地形から、天然の要害として守りの要となっていた。鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲で有名な唱歌『箱根八里』を歌った世代がここを訪れたら、感無量になることは間違いない。

 また、「鶏鳴狗盗」の言葉もここで生まれた。当時、城門は毎朝、鶏の鳴き声を合図に開けられた。『史記』には、戦国四君の一人、孟嘗君が、招かれた秦の国で殺されそうになった時、鶏の鳴きまね上手な自分の部下の助けで、定刻の開門時間前に函谷関を開けさせ、脱出したという故事が載っている。

三門峡の車馬坑

 春秋戦国時代、三門峡はカクの国にあった。諺の「唇亡びて歯寒し」の出典となった国である。春秋時代、大国の晋が、小国の虞に道を借りて、隣接したカクを討とうとした時、虞の家臣が「カクが滅べば、次は虞が攻められて滅びる」として、この諺を引いた。転じて、互いに助け合う関係にある一方が滅びると、他の一方の存在まで危うくなるという意味で用いられるようになった。

 カク国博物館は、・国の墳墓群の上に建てられた博物館である。中には、墓から出土した青銅器、玉器などの見事な副葬品が数多く展示されているほか、遺跡そのものを建物で囲って展示している。中でも、車馬坑は、何台もの馬車と馬の骨が出土したままの状態で保存されている。二十世紀「河南重大考古新発見」の一つで、国家クラス重要文物に指定され、「西の兵馬俑坑、東のカク国車馬坑」とも言われるほどである。

登封少林寺

 黄土高原の古き良き人情に触れてみたいなら、ぜひ、窯洞へ。土の崖に横穴を掘っただけの洞穴式住居で、語感からすれば、原始的住居と思われるが、実は夏は涼しく、冬は暖かで、住み心地は快適である。

 洛陽 芥川竜之介の『杜子春』に登場する洛陽は、日本人にとって、とりわけ親しみのもてる中国の街の一つである。かつて日本の多くの学僧が憧れ、学んだ洛陽は、経済、学問、芸術の都として栄えた古都であった。

 現在の洛陽は、観光都市、工業都市として発展している。さらに、隋の時代から牡丹の名所として知られ、牡丹城とも言われる。4月15日〜25日には牡丹祭りが開かれ、二十数カ所の牡丹園に二百種以上の牡丹が鮮やかに咲き誇る。気候も過ぎしやすく、国内外の多くの人々がこの時期に訪れている。

洛陽で開かれる牡丹祭り

 文化の都として栄えただけあって、洛陽を中心とした地域には、中国史を語る上でも欠かせない名所がいくつもある。街の南西十四キロには、中国の三大石窟に数えられ、世界遺産にも登録された壮大な石窟寺院――竜門石窟がある。伊河沿いの岩山に約1キロにわたって、二千以上の石窟と十万体にも及ぶ石仏が並んでいる。中でも唐代に則天武后をモデルに彫られた盧舎那仏は素晴らしく、奈良の大仏にも影響を与えたと言われている。

 『三国志』をひもといたことのある人に、ぜひ訪れてほしいのは関帝廟である。蜀の英雄、関羽の首が埋葬されている。関帝廟は横浜の中華街や中国各地にいくつもあるが、洛陽のここが一番古い。

 登封の少林寺 この寺は、北魏時代の495年に建てられた。ほどなく、インドの僧、達磨が来て禅宗を始め、少林寺は中国禅宗発祥の地となった。

 少林寺拳法として世界的に知られるこの拳法は、そもそも、心身を鍛える修業の一環として、また虎や狼から身を守るために、僧侶たちが武術の訓練をしたことに始まったといわれている。ここには寺院のほかに、唐代からの歴代高僧の墓地である塔林がある。243にのぼるレンガや石造りの墓塔が、文字通り林立しており、壮観だ。

 鄭州 王朝街道の拠点都市、鄭州は、中国交通の要である。ここを起点として、西は洛陽、少林寺、東は開封、北は安陽、南は三国時代の魏の都だった許昌などへ、日帰り観光が可能である。鄭州は、ホテルをはじめ、観光施設が充実しており、河南省をじっくり観光するには、ここを拠点とするのが最適である。

 鄭州の街の北には、悠久の歴史を秘めた黄河がゆったりと流れており、市内の博物院では多くの展示品から、この都市の栄枯盛衰を偲ぶことができる。

殷墟から発掘された甲骨文

 開封 鄭州から東に70キロ、高速道路で約50分、北宋時代に都が置かれた古都、開封がある。テーマパーク「清明上河園」は、建物が復元されているだけではなく、当時の食べ物を売る屋台があり、宋代にも盛んに行われていた大道芸が数カ所で披露されている。

 開封は「水の都」といわれる。竜亭公園では、宋、金二代の宮殿跡に建てられた竜亭が高く聳え、金色に輝き、人工の湖を左右に抱え、特有の雰囲気を醸し出している。開封の街全体を見渡すこともできる。

 この街の市の花は菊である。毎年10月に菊祭りが開催され、開封の一大行事にもなっている。この街ではまた、北宋時代の宮廷料理と名物の小籠包子を楽しむこともできる。

 安陽 殷墟は、約三千三百年前の商代後期の都の遺跡で、「地下の博物館」と呼ばれている。長年にわたり、遺跡の保護を積極的に行ってきたため、保存状態が極めて良い。エジプトのヒエログリフ、バビロンの楔形文字と並んで、世界三大古代文字と称される甲骨文字が大量に出土している。

 2001年5月16日、安陽市政府は有名な商代遺跡「殷墟」の世界文化遺産への登録を正式に申請した。遺跡は整備されており、出土品を展示する博物館や甲骨文の研究が行われる研究院があり、また実際の発掘現場の見学もできる。

バラエティーに富んだ河南の食

 

 豊かで奥深い歴史を背景に、河南省の「食」は充実している。

 豫菜 豫菜(河南料理)は、全国各地の風味の特色を取り入れ、酸味、甘味、塩味、辛味が程好く、東西南北すべての料理の特徴を備えている。

 洛陽の水席料理 乾燥地帯の洛陽ならではの、水分補給を目的とした、スープを多用した伝統的な宴会料理である。中国歴史上、唯一の女帝、則天武后が、わざわざ食べにこの地を訪れた料理で、フルコースは二十四品。このうち、前菜八品とスープ料理十六品はすべて、味と食材が異なる。

 開封の北宋時代の宮廷料理 中国料理の中では淡泊で、日本人好みの上品な味。代表的なメニューは、柔らかく、あっさりした「桶子鶏」「三不沾」(箸にもつかず、皿にもつかず、歯にもつかないという料理)、コースの最後には黄河産の鯉の砂糖酢炒めに、素麺よりも細い揚げソバを添えた「鯉魚焙麺」などがある。

 酒 河南で有名な酒は主に白酒。アルコール度数は30〜50度前後とかなり高い。杜康酒は、周代の酒作りの名人である杜康の名を冠した。また、仰韶酒(50度前後)や宋河糧液がある。
 
 この王朝街道を辿っていくと、見るもの、聞くもの、味わうもの、そのすべてに壮大な中国を感じることができる。(写真は河南省旅遊局提供、文は同局提供の資料を本誌がリライトした)