C
古寺の小学校に学んで
 
 
もと藍坊小学校の跡地は「藍坊中学」に拡張・改築された。現在の実験楼と宿舎楼
文・写真 丘桓興

 私が学んだ「藍坊小学校」は、広東省蕉嶺県・藍坊村の東南に位置する小山のふもとにあった。ここは、もともと千年の古刹・保慶寺だった。

 県史によれば、宋の時代、この村には藍奎という文人がいた。彼は読書をよくし、書にすぐれていた。宋の哲宗・元祐3年(1088年)、藍奎は都に赴き、「進士」(科挙制度における最高の試験「殿試」に合格したもの)となって、都で役人勤めをしていた。その清廉剛直な気質やすぐれた文才が、あらゆる人々の尊敬を集めていたという。

 晩年は故郷に帰り、保慶寺で読書や弟子の育成に努めた。逝去後は、同郷の人々がその功績を記念するため、「藍」という姓を村の名前に用いた。以来、ここが「藍坊郷」「藍坊村」と呼ばれるようになったのだ。

 近代になると、学校創設のブームが起きた。故郷でも、保慶寺を新式の学校に変えるとき、客家の囲屋(北京の四合院のような家屋)の様式に沿って、元の仏殿を全校集会の講堂に、両わきの部屋と南北の横屋(両わき奥にある部屋)を六つの教室にそれぞれ改築し、教員室や寝室、台所、食堂なども建設した。その後、校名や学年・クラスなどが度々変化してきたが、私の就学時には、全郷唯一の六年制の小学校となったのである。

 学校は山に寄り添い、教室は中庭で隔てられていたため、じつに静かな環境だった。ただ、私たちの教室は南側の棟であったが、小さくて暗く、当時は電灯もなかったので、曇天や雨の日には、目を大きく見張らなければ黒板の字が見えなかった。幸い私は早くから学校に通い、身長も低かったので、座席はいつも最前列だった。この「地の利」のおかげで、だいぶ助かったのである。

 小学校では、習字の授業が週に二コマあった。しかし、田舎には赤色の手本を敷き書きにする習字帳がなかったため、私たちは地元で「土造紙」と呼ばれる草紙を裁ち、紙をそろえ、紙縒りで装丁して習字帳を作っていた。ある日、国語の黄順貴先生が私のそばにやって来て、まじめに習字を Kっていたからかもしれないが、足を止めて、私のようすをじっと見ていた。硯に墨が少ないのに気づいた先生は、教室を出て、井戸水をカップに汲み、私のために墨をすってくれたのである。私があわてて立ち上がると「墨をするくらい、何のことはありませんよ。あなたは座って、習字を習ってください」と先生は言った。のちに先生は病で早世され、人々に惜しまれた。その授業のことを思い出す度に、そのほっそりとした容貌や親切な話し方が、まぶたに浮かんでくるのであった。

 客家人には茶を飲む習慣があるが、当時は学校に湯を沸かす炊事係がいなかった。そのため、のどが渇くと中庭の井戸まで行って、長い柄のある竹杓で井戸水を汲み、ゴクゴクと飲んだ。井戸水は清らかで甘かった。井戸水を飲んで腹を壊したという話は、一度も聞いたことがない。

新築された教学楼の教室は、広くて明るい

 小学校はわが家から2キロ離れていた。幸い通学路は平らな稲田にあったので、山越えの苦労はいっさいなかった。そのため通学や下校は、私たちにとって格好の遊び時間となった。稲の穂に止まったトンボを見れば、後ろからこっそりと捕まえた。田んぼの溝に身を寄せるドジョウを見れば、ズボンの裾をまくり上げ、泥の中に両手を入れて、石畳の道に泥水もろともドジョウをすくった。歩き疲れると、わが家の畑からサツマイモを掘り出して、水路で洗い、食べながら通学したこともある。あるときなどは遠くから授業開始のベルが聞こえ、あわててサツマイモをカバンに詰め込み、駆け出したこともある……。

 私はトラブルを起こすたちではなかったが、過ちを犯したことがある。ある日の放課後、わたしは隣村に住む友人と遊んでいた。2人は30メートルほど離れて、互いに石を投げ合う遊びをしていた。どちらがより正確に投げ、より早く身をかわすかを試したのである。もし石に当たっても「恨みっこなし」だと約束していた。始めはどちらも石に当たらず、楽しく遊んでいたが、最後に投げた私の石が友人の左の目尻をかすり、そこから血が流れ出た。驚いた私は、あわてて彼にあやまった。

 翌朝、彼の担任の李先生が、私を呼びつけて叱った。「もし友人の目がつぶれたら、その一生もつぶれたのではないか? それにあなたの家は貧しくて学費も未納で、医療費や薬代を捻出することができるのか?」と。

 学費はわずか2・5元でしかなかったが、村人たちは現金収入が少なかったので、支払いが滞ることがよくあった。わが家は貧しく、兄弟四人が学校に通っていたため学費未納はしょっちゅうだった。小学校の校長が全校集会で学費を督促するとき、私はいつも恥ずかしさで頭を垂れた。のちに米で学費を支払うようになってから、すぐに納入できるようになり、喜び勇んで通学したものである。客家人には古くから、師を敬い、教育を重んずるという伝統がある。昔、故郷は閉ざされており、村には市場もなかったために、生徒は順に学校へ野菜を送るという習慣があった。私の番になったとき、母は菜園からカラシナやニンニクの青葉を摘んで、きれいに洗い、「わずかばかりですから、先生方にきちんとすみませんと言いなさい」とつけたした。

 その後、故郷の教育事業も発展してきた。1986年の初めに帰省した際、母校はすでに「藍坊中学」と改名していた。当初、その吉報を知らせあった村人たちが寄付を集めた。また、台湾に住み着いた多くの同郷人や海外華僑もそれを聞き、快く献金をした。郷政府も、建築用地と木材を提供してくれた。ほどなくして母校のもとの場所に教学楼や実験楼、宿舎楼などが建てられた。今回の帰省では、教学楼がさらに一つ新築されて、他の建物と合わせて四角いキャンパスができたのを見た。また、キャンパスの前には運動場も造られた。学校のスポーツチームのメンバー十数人が、教師の指導でトレーニングに励んでいた。彼らは今年の県大会で、よい成績を収めるようにと、一心に努力しているところであった。

 
  【客家】(はっか)。4世紀初め(西晋末期)と9世紀末(唐代末期)、13世紀初め(南宋末期)のころ、黄河流域から南方へ移り住んだ漢民族の一派。共通の客家語を話し、独特の客家文化と生活習慣をもつ。現在およそ6000万人の客家人がいるといわれ、広東、福建、江西、広西、湖南、四川、台湾などの省・自治区に分布している。