ANA 地の楽園・杭州へ直行便開設
                                       王浩


6月の断橋とハスの花は、西湖の美景だ(写真・藍配謹)

 7世紀から9世紀、中国の先進文化を学ぶために、日本はかつて19回にも及ぶ遣唐使を派遣した。中国に到達するために、遣唐使たちは身の危険を冒してまでも、大海を船で渡った。その多くは日本の難波港を出発し、東中国海を横断、中国東南部の揚州と明州(今の寧波)に上陸し、そして唐の都・長安(今の西安)へと向かったのだ。

 当時のルートは、なんと辛かったことだろう。しかし喜ばしいことに、今年3月28日、全日本空輸株式会社(ANA)の日本―中国・杭州線が正式に就航。上海を中心とする華東経済圏が発展するなか、ビジネスマンにとっても、また遣唐使の足跡をたどりたい観光客にとっても、新規路線はその行程を大幅に短縮することになった。

范蠡と西施ゆかりの地

 杭州は浙江省の省都である。中国東南部の沿海、長江デルタの南側にあり、上海、寧波、南京の近くに位置する。中国でも有名な観光の都市であり、歴史と文化のふるさとである。古くは春秋戦国時代、杭州は古越文化の中心だった。そこには越の賢臣・范蠡と、美女の西施(古代中国の「四大美人」の一人)の物語が伝えられる。

 当時、呉に敗れた越国の王・勾践は、敗国の辱をすすごうとした。范蠡は国の復興のため、涙をのんで恋人の西施を呉王夫差のもとへ送りこんだ。夫差は色におぼれて、政治をおろそかにした。越王勾践は臥薪嘗胆して、雪辱を期すときを待った。10年の辛抱をへた勾践は、范蠡らの協力のもと呉を破り、都(今の蘇州)を攻落、ついに呉を併合したのだ。その後、范蠡は西施とともに太湖のほとりに落ちついた。商いに生き、のちに商家の始祖として祭られるようになった――といわれる。

 杭州はまた、中国の「良渚文化」の発祥地である。今から約5300年前の新石器時代、長江流域に住んでいた古代人の文明である。ここから大規模な「犂耕稲作農業遺跡」が出土して、世界でも見事な彫刻のある玉器が明らかとなった。玉器の表面には「原始文字」が刻まれており、中国に文字が出現する序奏になったとされている。この良渚文化は中国考古学史において、きわめて重要な位置を占めている。

杭州の茶芸は奥が深く、生活になくてはならないものとなっている。(写真・王浩)

 南宋時代に、杭州は都となった。異民族の侵入により、中国北方民族が戦乱を逃れて次々と南に移った。彼らが杭州一帯にやってきたとき、南方特有の美しい景色に惹かれない者はなく、その多くがここに住みついた。当時、杭州一帯には商人が大勢集まり、商業がかつてない繁栄時代を迎えていた。宋代の詩人・柳咏は、かつて杭州をこう評したことがある。「東南形勝、三呉都会、銭塘自古繁華」(東南は地勢にすぐれ、蘇州・常州・湖州の三呉の都会と銭塘が、古くから繁栄している)と。

 このほか杭州は、多数の歴史的人物や文人墨客が集まる場所でもあった。唐・宋代の大詩人・白居易、蘇東坡(蘇軾)をはじめ、母の手により背中に「尽忠報国」と入れ墨をした英雄・岳飛、近代の文豪・魯迅、郁達夫などが、みな貴重な文化遺産をここに残した。「梁山伯と祝英台」「白蛇伝」「済公」などの民間伝説もここから広く伝わった。それらのゆかりの地は現在、杭州の一部となっている。ANA中国杭州支店の小林弘幸支店長は、「杭州は非常に豊かなところで、経済発展が著しい。また、美しいリゾート都市でもあります。直行便の開設は、日中両国の人々の共通の願いでした」と、就航の喜びを語る。

竜井茶とリゾートのふるさと

 竜井茶や江南料理、温暖湿潤な気候は、杭州の人々に繊細ながら、大らかな気質をもたらしたようだ。茶は杭州っ子の生活に欠かせないものとなっている。休憩や集会、世間話をするとき、杭州っ子はまず茶館を訪ねる。中国国際茶文化研究会の理事・王旭烽氏は「杭州の茶文化は、日常生活に浸透した文化だ」という。

六和塔は伝説上の銭塘江に住む怪物を鎮めるために建てられた(写真・藍配謹)

 生粋の杭州っ子は、そのほとんどが西湖のほとりや景勝区にある茶室で茶をたしなんでいる。一杯10元ほどで、乾燥梅などのお茶請けは別に求める。こうした喫茶方法は、もちろん自由で気楽なものだ。その後、室内茶館やレストラン式の茶館も盛んになってきた。「喫」という字は、「茶」の別の意味を表している。「喫茶」はまさに名実伴うものとなった。

 杭州の銘茶といえば、もちろん「西湖竜井」を挙げるべきだろう。竜井茶は緑茶に属し、もとより緑色を呈し、香りが高く、甘さがあって、形が美しいという「四絶」(四つの絶品)と称えられる銘茶の一つだ。唐代の茶聖・陸羽は『茶経』のなかで、杭州の「霊隠」「天竺」両寺院のすぐれた茶の香りについて記載している。竜井が茶名として呼ばれたのは、宋代からだ。歴史上、産地によって獅、竜、雲、虎、梅の五つの著名な商号に分かれていたが、のちに「西湖竜井」と総称された。

 竜井茶は、泉の名前を冠したものだ。竜井村に竜井泉という泉があるが、言い伝えによれば竜井泉は東中国海まで通じ、四季を通して水が涸れることはないという。三国時代、人々は井戸の傍らに神を祭り、雨乞いの儀式をした。明代のある年、杭州で大干ばつが起こり、駐浙総兵の李徳が兵を率いて竜井へ水を汲みにやってきた。一時的に水量が不足すると、李徳は兵たちに井戸を掘らせた。すると一天にわかに掻き曇り、泉の水がこんこんとあふれ出したのだ。杭州の大旱魃もついに解決、李徳はその後、竜井泉の傍らに寺院を建てた。それが竜井寺と称されて、今は「竜井茶室」になっている。杭州はまた、中国最大級の緑茶の生産地でもある。その産品は、国内外に売り出されている。

上清河坊は杭州の古い商店街だ。明・清時代の江南地方の繁栄を見ることができる。(写真・王浩)

 美しい山河の景色と豊かな文化は、杭州を有名なリゾート地にした。杭州で、南国の風景を味わいたいなら、西湖や銭塘江に行くといいだろう。名山古刹を訪ねたいなら、霊隠寺は絶好の場所だ。江南水郷の景色を楽しみたいなら、烏鎮の一帯がいいだろう。魯迅の小説『故郷』のなかの情景を観賞するなら、その舞台である紹興は杭州から非常に近い。

 昨年の西湖博覧会は、国内外の観光客に、杭州の認識を改めさせた。2006年、第一回世界リゾート博覧会が杭州で開催される。そのとき、杭州は世界に対してより魅力的な姿を示すに違いない。

妙なる西湖と銭塘江

 西湖は、杭州の魂ともいえる存在である。宋代の詩人・蘇東坡は、「西湖をもって西子に比せんと欲すれば、淡粧 濃抹 総て相宜し」との詩を残し、絶世の美女とうたわれた西施の比喩によって、そのすばらしさを形容した。絶景は枚挙にいとまがないが、特に、「三潭の印月」「雷峰の夕照」「蘇堤の春暁」などの西湖十景は、中国人なら誰でも知っている。

 西湖は、杭州の西に位置し、三方を山に囲まれている。湖の東には南北に3・3キロ、東西に2・8キロの市街区がある。蘇堤と白堤は、街をまたぐ形になっていて、西湖を里湖、外湖、岳湖、里西湖、小南湖の五つに分けている。西湖と杭州の街並みは一体となり、自然と人工物を結合させている。

 知らない人が多いが、かつての西湖は、今の倍の大きさがあった。史料によると、唐代にその面積は約10・8平方キロ、宋・元代には約9・3平方キロだったが、いまではわずか5・6平方キロでしかない。

小林弘幸・ANA杭州支店長

 面積が縮小しているのはなぜだろうか。専門家は、「土砂の堆積が原因。西湖は、大量の土砂が少しずつ堆積してできたラグーンで、土砂堆積は、西湖の変化の過程では避けられない現象である」と説明する。唐の白居易、北宋の蘇東坡、明の楊孟瑛は、有名な杭州の知府(府知事)だった人で、西湖を浚渫し、人々に恩恵を与えた。人々は、彼らに感謝するため、西湖の長堤をそれぞれ白堤、蘇堤、楊公堤と名付けた。清の乾隆帝の時代には、一部の庶民が浚渫した土砂を堤として、残った土砂を湖の西側に敷いて平らにし、水田を作ったことで、いまの西湖の風景が出来上がった。

 西湖を清の頃の美しい風景に戻すことが、庶民の願いである。美しさを取り戻し、市民に美しさを味わってもらうため、2003年、杭州市は正式に「西湖西進」(西湖を西に進める)プロジェクトをスタートさせた。「西進」が実現すれば、西湖の水が西に数キロ離れた山のふもとまで引かれることとなる。これにより、水域面積が拡大されるだけでなく、趣のある多彩な景色が味わえるという感覚を与えるだろう。西湖が観光客に見せる姿は、鏡のような湖面だけだが、水面と陸地の密接な関係は、市民と西湖の関係をさらに深いものに変える。

 名高い「西湖十景」の基礎の上に、杭州っ子は、「満隴の桂雨」「玉皇の飛雲」「雲棲の竹経」などの「新十景」を選んだ。新しい西湖は、観光客に無限の楽しみを与えるだろう。

越劇は浙江省一帯に起こった地方劇。日本の「宝怐vと同じように、古代の役者はいずれも女性だったという(写真提供・杭州旅遊委員会)

 杭州の景色の美しさは、温暖湿潤な気候が影響している。ここでは、年間を通して雨が多い。銭塘江は、杭州を通って東中国海に流れ込んでいて、満潮の際に銭塘江が逆流する情景が、呼び物の一つとなっている。銭塘江の逆流は、毎月1日または15日からの2日間に見られ、特に、旧暦8月18日前後の数日に、最も壮観な逆流を目にすることができる。銭塘江の河口は、海側が広く、内陸側が狭いラッパ状をしている。海と河の境界は、幅が100キロにもなり、西の内陸にさかのぼるにつれて20キロ前後に狭まる。最も狭い場所では3キロ程度しかなく、満潮時の逆流は、地形の影響で徐々に大きな波となり、まるでそびえる水の壁のように西へ向かって進む。最大で9〜10メートルの高さとなり、万馬が疾走し、雷鳴がとどろくようなので、「銭江秋涛」としても名高い。早くは唐、宋のころに、逆流の見物が流行っていた。多くの詩人がこれをたえず吟詠し、蘇東坡の詩には、「8月18日の潮、壮観なること 天下に無し」とある。

 杭州周辺には、銭塘江のほかにも富春江、新安江、千島湖などがあり、それぞれの山水が独特の魅力をかもし出している。

 杭州の美しい山水については、なかなか書ききれるものではない。全日空の直行便の就航により、杭州と日本の距離は近づく。浙江省中国旅行社日本部の王偉部長は、「直行便の就航に合わせ、杭州の各旅行社は日本人観光客の方々に、たくさんの観光ルートとすばらしいサービスを提供します。全日空のフライトとともに、杭州をお楽しみください」と語る。


 

         杭州線就航によせて

               全日本空輸(株)代表取締役社長 大橋洋治氏

 

 ANA は本年3月28日(日)より、中国線ネットワークの新規路線として、杭州―成田線を週四便、杭州―関西線を週三便運航し、杭州―日本間を毎日運航することとなりました。

 弊社は1986年に国際線定期航空会社の仲間入りを果たし、本年で18年目を迎えますが、中でも中国路線については、1987年の成田―大連―北京線を皮切りに、現在、北京、上海、大連、瀋陽、青島、厦門、香港、天津(貨物)と八都市に乗り入れており、今回の杭州線開設により九都市への就航となります。加えて旅客便の路線数は17路線112往復に拡大いたします。

 杭州は「長江デルタ」の交通要衝であり、西湖をはじめ、歴史上の名所旧跡、山紫水明の自然美など景勝観光資源が豊富で、古くから「上に天堂(天国)あり、下に蘇(州)杭(州)あり」と称えられる中国有数の観光地で、今後、日本からの観光需要の拡大が見込まれます。

 弊社は、こうした中国の都市と日本を結ぶネットワークにより、中国の経済、文化、人的交流をはじめ、両国の発展にとって大きな役割を果たすことができるものと確信しております。

 中国と日本は、1972年9月の国交回復以来、30年以上もの間、友好かつ緊密な関係を維持発展させておりますが、中国のWTO加盟効果等により、今後も一層の交流拡大が期待されます。

 この中日友好の歴史は、15年前に亡くなられた弊社の二代目社長、故岡崎嘉平太先生が中日の架け橋として、生涯その精力を注がれた歴史でもあります。

 弊社といたしましては、当路線開設を通じて、このよき伝統をさらに発展させ、両地域の相互交流の活性化とともに、杭州の一層の発展に寄与できるものと確信しております。

 最後に、今回の新規路線就航を契機といたしまして、安全な航空輸送の達成、より一層のサービス向上に努めてまいる所存ですので、何卒変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。(2004年4月号)