[特別寄稿]

 
 
中国の大地に生きた日本人女医 
葉綺先生を悼む
 
                              中国中日関係史学会副会長 朱福来

若いころの葉綺さん

 この5月10日、葉綺先生が突然亡くなられた。長い間、中国人とともに働き、中国人の命を救ってきた彼女の訃報を聞き、非常に驚いた。痛恨の極みである。

 葉綺先生は、中国籍の日本人の医師である。1929年、東京で生まれた。本名は「野崎綾子」という。

 中国の東北部に住んでいた彼女は1945年12月、青春まっただなかの16歳のとき、自ら進んで中国の革命と建設に身を投じた。それからほぼ60年の長きにわたり彼女は、自分自身を完全に中国と中国人の中に溶け込ませ、自分の生涯を中国と中国人民に捧げた。

 彼女の生きた半世紀の足跡は、中国中日関係史学会が編集・出版した『友誼鋳春秋――為新中国做出貢献的日本人』(邦訳は日本僑報社『新中国に貢献した日本人たち』)の中に、具体的に紹介されている。その一部を要約しながらご紹介しよう。

 父母とともに5歳で中国に渡った彼女は、大連、北京で少女時代を過し、吉林の日本高等女学校で敗戦を迎えた。同級生たちが泣き崩れる中で彼女は呆然としていた。昨日までこの戦争は「聖戦」で「必ず勝つ」と宣伝されていたからだ。

 「敗戦を知ったとき、何か不思議な空虚の中で瞬間的に脳裏をよぎったのは、私たちは騙されていたのだという思いでした」と、後に彼女は回顧している。

 その後、『吉林日報』で校正の仕事を手伝ううち、彼女は多くの中国共産党員と知り合い、戦争の原因を深く理解するようになった。いっしょに日本に帰ろうという家族を逆に説得して、彼女は単身、中国に残ることを決めた。そして1946年1月、八路軍第二十四旅団に入り、衛生兵として従軍した。

 戦争は厳しく、彼女は何度も死の危険に直面した。しかし彼女の献身的な看護と優秀な仕事ぶりは、多くの兵士たちに賞賛された。彼女自身も敵機の爆撃で足に大怪我を負い、気を失った。それを救ったのは中国の戦友たちだった。

 「あの戦争で実際に体験して分かったのは、もっとも貴重なのは人間愛だということでした。それは、それまで見たことも聞いたこともなかった、性別も国境も兄弟の情をも超える人間愛でした。彼らはこの愛を国際主義と呼び、同志愛と呼びました。この愛がなければ、私はとっくに死んでいたでしょう」

 中国の東北地方が解放されたあと、彼女は推薦されてハルビン医科大学に入学した。名前も「葉綺」に変えた。日本名の「野崎」は中国語読みにすると「イエチー」で、この発音に中国人らしい漢字を当てたのだった。

 大学を卒業し、さらに大学院で学んだ彼女は、1952年から遼寧省鞍山の鉄鋼コンビナートにできた綜合病院にすすんで赴任した。そして30年以上、彼女は、高い医術と強い責任感で、多くの患者を救った。五五年には、中国人医師、林楠山さんと結婚した。

 1965年夏、遼陽で大水害が発生した。彼女は14人の医師で組織された医療チームの隊長に任命され、四カ月の間に八カ所の医療拠点を設立し、延べ1万人近い患者を診察した。農村に住んで、農民たちと寝食をともにする彼女に、農民は深い信頼を寄せ、「葉先生、あなたはまさに毛沢東主席が寄越してくださった名医です」と称えた。

患者を診察する葉綺医師

 中国籍の日本人女医という独特な立場とその経歴から、中日両国の友好促進にも大きな役割を果たした。彼女の的確で心のこもった診断と手当てのおかげで、九死に一生を得た日本人も少なくない。

 1985年、彼女は、日本の援助で建てられた北京の中日友好病院の心血管内科副部長兼外国人外来診察部部長となった。また北京日本人学校の顧問医師も長く勤めた。昨年、 が流行した時には、北京日本人会で講演するなど、北京在住の日本人にとって、日本語が流暢な「葉綺先生」は、信頼できる存在だった。2000年には日本から、「宝冠章」を授与された。

 『友誼鋳春秋――為新中国做出貢献的日本人』が出版されたあと、中日関係史学会は、その第二巻の編集を始めた。彼女は、今度は取材を受けるのではなく、自ら執筆して、中国の革命と建設に尽くした他の日本人を紹介する文章を書いてくれたのだった。

 その文章が完成した数日後、彼女は卒然とこの世を去った。『新田大夫――中国人民的真正朋友』と題するこの文章が彼女の絶筆となった。その中で彼女は、元日本軍の軍医で、その後、中国人民解放軍の軍医になり、解放戦争の中で犠牲となった「新田軍医」のことを描いている。その一部を紹介しよう。

 「いつも寡黙な新田軍医は、病人に対してはいつもまじめで、責任感に溢れ、とても優しかった。解放軍の兵士たちには兄弟のように接し、傷を負った兵士が不幸にして亡くなると、彼は自分の能力のなさを恨んで涙を流すのだった」

 (東北地方に恐ろしい伝染病が発生すると)「新田軍医は、徹夜の連続で、寝食を忘れ治療に当たった。どれほど多くの人が救われたか分からない。彼は、すべての指揮官と兵士から高い評価を受けた」

 (しかし新田軍医自身もチフスに感染し、最前線から後退するように勧められた)「新田軍医は静かに言った『私は行かない。たとえ死んでも、私はこの部隊を離れることはできない』と」

 (そして新田軍医は臨終の時を迎える)「彼は突然、目を大きく見開いて、全身の力をしぼり出すようにしてはっきりと『私の胸を見てごらん』と言い、ゆっくりと服のボタンを開けた。見るとそこには、七、八個の赤い発疹があった。『君は将来、医者になるのだから、よく見ておくのだよ。発疹の周囲はバラ色で、真中は黄色だろう。綺麗なバラの花のようではないか。だから、これをバラ発疹と呼ぶ。この発疹は、腸チフスを患った時だけに見られるのです。覚えておきなさい』。これが新田軍医の最後の言葉となった」

中日友好病院で、若い医師たちの指導に当たる葉綺医師(中央)

 「新田軍医は、短かかったが輝かしい一生を終えた。妻と、まだ産まれていない子どもを残して、永遠に私たちから去って行った。しかし、彼の感動的な事績は、永久に中国の戦友の脳裏に刻まれている」

 葉綺医師はこう書いて、新田軍医を高く評価した。しかし、新田軍医の物語は、まさに葉綺医師自身を描いた自画像でもある。彼女が、生命の最後の一刻まで、自ら文章を書き、中日友好に尽くしたことを、私たちは永遠に忘れない。

 彼女の精神、人格、そして彼女が中国人民にしてくれたすべてのことを、人々は永遠に忘れないだろう。

 安らかに眠ってください、葉綺先生。

 安らかに眠ってください、野崎綾子さん。