【上海スクランブル】

世界に向けて花開け!上海発の日本人ブランド
                                        文・写真=須藤みか
                 
「将来は婦人服ブランドも…」と日野宏美さんは意欲的

 新天地・上海で起業・独立しようと、上海へやってくる日本人の若者が増えている。業種も、レストランや洋・和菓子店に、美容院。店舗設計、貿易、IT…と、実に多様だ。

 服飾デザイナーの日野宏美さん(29歳)もそんな起業・独立組の一人で、昨年3月上海へやってきた。日野さんの手による犬の洋服ブランド「MODE TOU TOU」が今年五月に立ち上がり、日本の小売店での販売がスタートした。

 曾祖母が呉服屋、祖母は洋装店、母がブティック経営と、服飾一家に育った。自然に洋服に興味を持つようになり、文化服装学院へ入学。「絵が下手だったから」という理由で、デザイン画をもとに裁断用の型紙を書くパタンナーを養成するアパレル技術科へ進む。

 東京の婦人服メーカーでパタンナーとして働き始めるが、根っからのクリエイティビティや行動力が、黒子役であるパタンナーというポジションには収まりきらない。会社命令で子供服事業部の企画セクションへ移り、その後、大阪の子供服小売店から誘われて社内デザイナーとなる。ブランド「BAJA」を三年担当。ヒット商品を飛ばし続けるのだが、紙の世界だけのデザイナーという働き方に疑問を感じるように。

 「デザイナーって面白い仕事ですけど、紙の上だけの仕事です。デザインを描いて、指示書を出して、サンプルが上がってくれば修正して…。そこから先の生産の世界にも関わりたかったし、今はちやほやされていても、40、50代になった時どうだろうって思ったんです」

日野さんがデザインした作品

 一生仕事をしていたいからこそ、自分のブランドを立ち上げた時、デザイン画から生産までをトータルコーディネートできるようになっていたい。

 そう思って会社をすっぱり辞めるのだが、そこからの決断がとにかく早い。米国へ行くか、それともヨーロッパか。そんなことも考えたが、偶然再会した知人の一言で「上海行き」を決める。

 「『欧米へ行っても意味がない。生産現場を知りたいなら、上海だ。中国の現場を見て何も感じなければ戻ってくればいいじゃないか』と言われて、その足でビザの申請に行きました(笑)」

デザインから生産までトータルコーディネート

 上海の空港に降り立ったのが、会社を辞めて十日目。人材紹介会社を訪問し、街を散策しながら過ごした二週間で、上海で働くと気持ちは固まっていた。その二カ月後には上海での生活をスタートさせ、香港系の貿易会社へ就職した。

 「日本からデザイン画が届いたら、それを商品にするまでを管理していくという、まさに希望していた通りの仕事でした」

 生産の現場で仕事をしながらも、いつか自分のブランドを立ち上げた時のためにと人脈を広げ、どうすれば上海でクオリティーの高いモノを作れるのか情報収集を続けた。

 中国の生産の現場を一通り理解し始めた頃、日本のペット関連事業を展開する会社が犬の洋服のデザイナーを探しているという話が飛び込んできた。デザイン画を描くだけでなく、生産までトータルで見て欲しいという先方の要求も、日野さんの願っていたスタイルだった。半年足らずで準備をして、冒頭のブランドがスタートした。市場での反応は好評で、今は秋冬物に取り組んでいる。

 「日本にデザイナーがいて、中国が生産現場というのでは時間もかかりますが、私は上海にいます。デザイン画を描くと、糸作りの指示から始まって、その糸で生地が出来上がり、サンプルを経て、生産へという過程を全て私一人でやっていきます。各段階で必ず修正ややり直しが必要ですが、一人だからこそクイックで対応できるんです」

上海でもペットブーム。上海での販売も日野さんの夢だ

 日本でデザイナーをしていた頃は、指示書を出せばその通りのものが上がってきた。修正を出してもスムーズに対応してもらえる。今はその頃に比べると「十倍」の苦労もあるそうだが、彼女の表情は明るい。工場の人たちと意見を激しく戦わせているせいか、中国人の友人からは「あなたの中国語は工場の人が喋っているみたいね」と言われる。「工場にずっと詰めているから、オジサン言葉になっているのかも」と、日野さんは苦笑する。

 犬の洋服だけでなく婦人服ブランドも立ち上げたい、と夢は広がる。日本人による上海発ブランドが日本に逆輸入される――。面白い時代になってきた。