特集 じわりと変わる日本語教育 (その2)
◆資料
  
 

什刹海の由来

  什刹海は、古くは「積水潭」と呼ばれていた。当時の池は広々としており、元の大都はこの積水潭に沿ってつくられた。明・清時代になると、池はしだいに縮小され、いまの前海、後海、西海の三つの部分が形成された。水面は約35ヘクタールである。

 蒙古語では、水のある場所が「海」と呼ばれた。また、その後ここには多くの寺院が建てられた。伝え聞くところによると、有名な十の寺院がいずれもここに建てられた。そのため「什刹海」――「什」と「十」が同音同意であることから「十の名刹がある池」――という名がついたのだという。それは北京の方言で、「シーシャーハイ」とも呼ばれる。

 元の時代、積水潭は水運の要衝であった。蘇州・杭州一帯の物産が、京杭大運河と通恵河をへて、都へと届けられた。積水潭はそうした水運の「終着港」だった。明代になると、宮廷・紫禁城が拡張されて通恵河の水路が阻まれたため、大運河の船は什刹海までの通航ができなくなった。岸港としての機能がなくなり、池もしだいに縮小した。

 しかし、それによって水景の美しさがいっそう増した。多くの僧や道士が寺院を建てたばかりでなく、高官や貴族が大邸宅や庭園を建設した。また、名士らが邸宅を設け、社交の場をつくって華やかに交際していた。さらに多くの一般庶民たちは、水辺に居を構えて、下町の雰囲気あふれるすばらしい場所をつくっていった。

胡同

 古い北京城内にある狭い通り、横町のこと。北京にはその昔、「名のある胡同360、名のない胡同、牛の毛のごとし」という言い方があった。胡同は元・明・清の時代をへて形づくられ、絶え間なく増えていった。明代には1170あり、その後1944年には3200、82年には6604に増加した。胡同の名前はさまざまで、その変化の中からも北京の歴史を読み解くことができる。現在、都市の再開発にともなって、胡同の多くが消え去った。什刹海地区は、北京市が重点的に保護する「文化歴史街区」として、ほぼ昔のままの胡同を残している。

四合院

 中庭を囲み、「口」の字型に家屋を配した「四合院」は、中国北方の独特な建築様式だ。伝統的な四合院は、表門、影壁(目隠しの塀)、月形門、外庭、垂花門(彫刻などの飾りのついた門)、中庭、母屋、耳房(母屋の東西に連なる部屋)、廂房(母屋の両脇に向かい合った建物)などから構成される。四合院はいくつもの時代の変遷をへて、その様式のほとんどが変わっていった。現在、北京の四合院には、昔と変わらず多くの庶民が住んでいる。四合院に入ると、古い北京の庶民の暮らしを感じることができるだろう。