新旧が同居するアカシアの大連はいま
 
 
                                     王浩=文  魯忠民=写真
 
中山広場は旧大連の中心部にあり、十本の道路が放射状に交差している(写真・王士俊)
中国・遼東半島の最南端に位置する大連は、三方を海に囲まれた都市だ。市制わずか百年あまりの歴史だが、そのうちの半世紀近くは帝政ロシアと日本に占領されていた。しかし、いまでは植民地の傷跡も徐々に薄れてきているようだ。改革・開放政策がスタートして20年あまり。伝統と現代化、異国情緒をそなえた「新大連」は、まさに環渤海経済をリードする、輝く真珠となっている。

広場は都市発展のシンボル

 大連の広場は、この都市の歴史とともに歩んできた。大連っ子をもっとも誇らしくさせる話の種の一つである。悠久の歴史をほこる中山広場から現代的な星海広場まで、広場は大連の発展のなかで、独特な魅力を打ちだしている。

歴史とどめる中山広場

 

 夜がしらじらと明けるころ、市内中山区に住む年のころ70歳くらいの于志竜さんは、早くも中山広場に到着していた。そこでは毎朝、体を鍛える多くの人が、于さんの流すラジカセの音楽を待っているところだった。于さんがこの広場で音楽を担当して17年。ここに来るほとんどの人が、彼のことを知っている。

 中山広場は、大連市の中心部に位置する。十本の道路がここから放射線状に広がり、広場の周りにはロマネスク様式、ゴシック様式、バロック様式の建築物が並んでいる。「大連ができたときから、この広場がありました。私と同年配の人たちはみな、ここに特別な感情を抱いています。食後にくつろぐひとときに、ここに来るのが好きなんですよ」と于さんは語る。

 中山広場は、もっとも早くには「ニコラエフ広場」と呼ばれていた。1899年、ロシアの植民地主義者が大連に港と都市の建設をスタート。都市建設の総監督となったサハロフは、近代西欧の「庭園都市」にあこがれる理想主義者であった。4・25平方キロにおよぶ市内に、彼は五つの広場を設計した。また、ニコラエフ広場を中心として十本の大通りを放射状に走らせて、それぞれの通りが他の広場と連結するという都市構造を決めたのだ。

広大な星海広場は、20〜21世紀にかけて世紀をまたいで建設された

 日本の占領時代には、ニコラエフ広場は「大和広場」と改名されて、横浜正金銀行、大連民政署庁、大和ホテルなど九つのヨーロッパ風建築物が増築された。1945年、解放された大連は、偉大な民主革命の先駆者・孫中山を記念するため、この広場を「中山広場」と改名。95年、大連市政府は中山広場の改造を行い、音楽をかなでる噴水などの人工施設を取り壊した。視界を広げ、中山広場本来の風貌を取りもどしたのだ。現在、大和ホテルは大連賓館(ホテル)となり、横浜正金銀行ビルは大連人民銀行の所在地となった。さらに中山広場周辺には多くの金融機関が増設されて、ここは大連の一大金融センターとなっている。

広場は大連のシンボル

広場は市民が早朝、体を鍛えるところだ

 大連の道路は狭く、自動車で市内を走ると、信号機をあまり目にすることがない。互いに連結しあう広場が、渋滞緩和のためのロータリーになっているのだ。大連は、中国でもっとも多くの広場をもつ都市である。広場は大小合わせて50以上。広場の多くが緑地と連なっていて、それが市民にもっとも好かれる憩いの場所となっている。

 じっさい十数年前の大連には、これほど多くの広場はなかった。わずかな緑地とロータリーがあっただけだ。当時の大連は、灰色がかった色合いの暗澹とした街だった。90年代初め、大連市は市民の生活環境を改善するため、中国の都市のなかでもいち早く公園をかこむ塀と柵を取り除いたのだ。当時、大連市長だった薄煕来氏(現・中国商務部長)は「一般の市民たちに、家を出たら公園に入るような感じを受けてもらいたい」と語ったという。こうして大連は大規模な都市改造をスタート。緑地と広場がだんだんと増えていった。大連の色合いも徐々に明るく、美しくなった。この10年の間に、大連にはたくさんの都市広場が新たに増えた。人々のショッピングや観光、憩いなどのライフスタイルが現れるような現代的な広場が、大連都市建設の核心となっていったのである。

広場をパトロールする女子騎馬警官隊。大連の美しい光景の一つだ(写真・王士俊)

 92年、大連を視察するため台湾から訪れた事業家の蔡辰男さんは、大連駅の前でこう言った。「私はここを選びました。ここにショッピングセンターを建てるのです」。5年後、人々はロマネスク様式をとどめた勝利広場の地下に、そのショッピングセンターがあるのを認めた。ショッピングセンターの存在によって、広場もそうした商業ムードに融けこんでいる。

 また、オリンピック広場の地下も、9万2000平方メートルにわたるショッピングセンターである。地上は連接した五つの大型円形広場とサッカー場、12面のテニスコートだ。現在ここは、大連市民のスポーツ活動の中心地となっている。

 悠久の歴史をほこる中山広場に比べれば、星海広場は大連でもっとも現代的な広場の一つといえるだろう。全体的な形状は、大きな本のようである。敷地面積は110万平方メートル。海に面し、都市を背にして配されている。香港の中国復帰を記念するため、97年に建てられた。以前、ここは巨大なゴミ山であったが、いまでは広場にさわやかな風が吹き抜けている。目の前に広がる青い海、そして背後にそびえる高層ビルが互いに映えて、現代的な臨海都市の風格を表している。

人民広場の芝生面積は、4万2541平方メートルに達する(写真・王士俊)

 このほか、大連には友好、海之韵、華楽など数多くの広場があり、ともに大連の独特な「広場文化」を作り上げている。

 97年、アメリカの元国務長官・キッシンジャー博士が大連を訪問し、一部の広場を参観してから感慨深げにこう語ったという。「私の記憶のなかの大連といえば、多くは外国の植民地主義者を連想するものだった。だが、今回ここへ来て、その印象がすっかり変わった。大連はいまや活力に満ち、大きな影響力を持つ現代的な都市となった」

広場を明るくする女子騎警隊

 星海広場と人民広場では毎日、騎馬パトロールをする女子警官を見ることができる。これが大連女子騎警隊(騎馬警官隊)である。そのさっそうとした姿の騎馬隊員たちが広場を通り過ぎると、まるでパッと明るくなるような光景となる。

 騎警隊の谷彩玲隊長の説明によれば、大連の女子騎警隊は1994年に発足。当初は騎馬隊とバイク隊があった。その後、大連がヨーロッパの風情をそなえた街であることを考慮して、女子騎警隊だけを残した。現在、騎警隊は毎日のパトロール(午前、午後各1時間半)のほか、市内で行われる各種の大型祝賀イベントに参加している。

友好広場(写真・王士俊)

 騎警隊員の勇姿を見ようと、彼女たちのトレーニング基地へと向かった。正門を入ると、最初に目に入ったのが、巨大な二棟の馬小屋だった。谷隊長によれば、騎警隊には現在、40数人の隊員をはじめ、70頭近くの馬がいる。馬はいずれも香港政府から贈られた、イギリス産の純血種であるという。

 そこではちょうど、コーチの指揮のもと、数人の騎警隊員がトレーニングをしているところだった。時に集まり隊列を組み、時に離れて、ハードルを越える……人と馬との呼吸がピッタリと合っていた。あるとき突然、一頭の馬が急に止まり、馬上の女子隊員があやうく落馬するところだった。馬の背に寄りかかった女子隊員は、馬の頭をポンポンとやさしくたたきながら、笑って言った。「ベイビー、私を振り落としたかったの?」。騎警隊の隊員たちはみな、自分の馬を「ベイビー」と呼んでいる。

 谷隊長は言う。「騎警隊員として、人は馬を熟知しなければなりません。馬は人と同じように、気乗りしないことがある。隊員たちが馬から振り落とされることは、しょっちゅうあるんですよ」。二時間のトレーニングが終わると、隊員たちは馬を引いて馬小屋へ戻り、馬を洗ったり、マッサージをしてやるのだという。ある隊員は言った。「毎日、こうしているんですよ。馬にマッサージをしてやるときも、私たちにはとても楽しいときなんです」

国際ファッション祭 にぎやかに

星海広場の世紀大道には大連に貢献した百人の足形が残されており、大連の百年の歴史を象徴している

 夕方、忙しい仕事を終えた市民たちが三々五々、散歩や世間話をしようと広場へとやってくる。このとき、若くて美しい女性たちが注目の的となる。

 大連の女性は、じつに美しい。それは江南女性のしとやかさ、細やかさとは異なり、ハルビン娘の素朴さ、さわやかさとも異なる。大連女性はスラリとしていて、容姿端麗。海洋文化の影響を受ける大連っ子には、ある種ブームの先端を行くような気質がある。女性たちの姿には、上品なまでの美しさが表れている。

 大連の女性はファッションに凝っていて、どんなモダンな服であれ率先して着こなしている。年に一度の「大連国際ファッション祭」は、大連でもっともにぎやかなイベントの一つとなっている。1988年にスタートし、これまでに16回も開かれてきた。祭事中は、世界でも有名なファッションデザイナーやトップモデルらがここに集まり、無数の最新ファッションをステージ上で発表するのだ。また、美しく装飾された山車やシャンペン、ファッションに添えられた満開の花々が、大連を色とりどりに華やかにする。

毎年、盛大に開かれる国際ファッション祭。大連のファッションが中国北部の流行をリードする(写真・王士俊)

 このほか大連では毎年、選抜したファッションデザイナーたちをフランス、イタリアなどの国へ研修のために派遣している。こうした環境の影響を受けて、「どこの娘もオシャレ好きだが、大連の娘はもっとオシャレ上手だ」と人々が評価するのも無理はない。

 大連っ子が流行を追うのは、なにもファッション祭だけではない。アカシア観賞会、ビール祭り、海浜文化祭、国際マラソン大会など、こうしたイベントはいずれも大連に根を下ろし、その規模も壮大である。大連もこうしたイベントの存在によって、活力に満ちているのかもしれない。


大連市の歴史

旅順203高地は、日露戦争の主戦場の一つ

 19世紀末の大連は小さな漁村だった。軍事防衛を強化するため1880年、清朝政府はここに埠頭を設けて開港し、中国初の近代的な海軍「北洋艦隊」の基地を造った。

 1985年、中国と日本の甲午戦争(日本では日清戦争)後、清朝政府は遼東半島を日本に割譲。その後、帝政ロシア、ドイツ、フランスの干渉により、日本は遼東半島から撤退した。まもなく、ロシアが大連占領を強行し、1899年に大連港を創建、大連市もそのときから建てられはじめた。

 1904年、大連で日露戦争が勃発。戦勝国となった日本がその後、大連を40年以上にわたって統治した。1945年、大連は解放された。


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