血と涙と愛に満ちた死の空路
 
                                                楊振生

「駝峰航線」は、全長800キロ、海抜4500〜5500メートルで、最高海抜は7000メートルに達する。雪山や高峰、峡谷、氷河など危険な区域を経なければならないので、「死亡航線」とも称された

 60年前、連合国軍は、日本軍の中国に対する封鎖を突破し、広範囲にわたるアジアの戦場を支援するために、ヒマラヤ山脈と横断山脈を越える大規模な空輸を決定した。その航空路線が「駝峰航線」である。

 戦争の硝煙が弥漫するこの前代未聞の大空輸は、数々の記憶を後世に残している。60年後の今日、私たちがその忘れがたい歴史を振り返ったとき、命と青春をかけて戦った苦難の歳月に心打たれる。ようやく手に入れた平和を大切にすることが、そのために奮闘した先人たちに対する最高の報いだろう。

世界で最も危険な空路

重機械設備がなかったため、中国政府は多くの労働者を動員し、すべて人力にたよって離着陸できる大型飛行場を建設した

 1942年前半、日本軍がビルマ(現ミャンマー)を攻撃・占領し、中国に大規模に進撃してきた。そしてその年の夏、連合国軍と中国との最後の連絡ルート――テン緬公路(雲南省とビルマを結ぶ道路)を遮断し、すべての物資輸送が中断を余儀なくされた。

 前年の12月7日(アメリカ時間)、日本はアメリカの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が勃発していた。アジアの戦場を安定させるため、当時のアメリカ大統領・ルーズベルトは「いかなる代償も惜しまず、中国への路線を必ず開通しなければならない」という命令を下した。

 海・陸路はすべて日本軍に遮断されてしまったので、引き続き中国へ戦略物質を提供するには、空路を開通するしかなかった。こうして、インドと雲南省を結ぶ航空路線「駝峰航線」が誕生した。

インドへの飛行準備のため、給油や検査、補修をしている雲南省昆明市巫家ハのC―54輸送機

 「駝峰航線」は第二次世界大戦において、飛行時間が最長で飛行条件がもっとも厳しい最大規模の空輸路線であった。インド・アッサム地方のディンジャン(Dinjan)から、東へ向かってヒマラヤ山脈、横断山脈、怒江を越え、雲南省昆明の巫家ハ、羊街、雲南駅などの飛行場に至る。路線の全長は800キロ余り、海抜は4500〜5500メートル、当時の航空機の最高飛行高度は、わずか7000メートルだった。ヒマラヤ山脈と横断山脈の連綿とした起伏は、まるでラクダのこぶのようだったので、「駝峰(ラクダのこぶ)航線」と名づけられた。

 「駝峰航線」は北線と南線に分かれていた。北線は、ディンジャン―プータオ(ビルマ)―雲竜(雲南省大理)―雲南駅(大理州祥雲県)―昆明と結び、天気によっては、ディンジャンからプータオ、麗江(雲南省)を経て昆明を結ぶときもあった。南線はディンジャン―シンブーヤン(ビルマ)―ミイトキーナ(ビルマ)―保山(雲南省)―楚雄(雲南省)―昆明と結ぶ。

 日本軍がミイトキーナを占領した後は、南線は利用出来なくなり、戦略物資の輸送はすべて北線で行った。

「駝峰航線」を経て雲南省の村の上空を飛ぶ航空機

 「駝峰航線」は、雪山や高峰、峡谷、氷河、ジャングルそして日本軍の占領区を経なければならなかった。またこの地域には、強い気流や低気圧、雹など厳しい自然条件があるので、航空機は常に墜落したり山に衝突したりする危険にさらされており、事故発生率が非常に高かった。晴れた日は、墜落した航空機の破片の反射する光に沿って飛行できるほどだったという。パイロットたちは戦友の航空機の残骸が散っている山谷を「アルミの谷」と呼んだ。このように非常に険しい路線だったので「駝峰航線」は「死亡航線」とも称された。

 戦後のアメリカ政府のデータによると、3年3カ月の間に、「駝峰航線」によって中国へ輸送された戦略物資は65万トン。しかし、その代価は非常に大きく、損失したアメリカ空軍機は468機、行方不明・犠牲になったパイロットは合わせて1500人以上であった。

中国とアメリカの友好

「血の布」。当時のパイロットはみな、「来華助戦洋人、軍民一体救護」という中国語が書かれた布切れを軍服に縫い付け、それによって、中国全土で救助を受けることができた

 戦時中、「駝峰航線」の護衛を担当するアメリカのパイロットと現地の中国人は、共に助け合い、深い友情を結んだ。これにまつわる美談はたくさん残っている。

 中国で参戦するアメリカのパイロットの飛行ジャケットにはすべて、シルクの布切れが縫い付けてあり、そこには「来華助戦洋人、軍民一体救護(中国を援助して戦う西洋人を軍民一体となって救護する)」という中国語が書かれていた。パイロットたちが「血の布」と呼んでいたこの布切れのおかげで、道に迷ったり事故に遭ったり、あるいは日本軍に撃墜されて緊急着陸やパラシュートで降下したアメリカのパイロットたちは、中国の軍や民間人の救護を受けることができた。

 1945年8月4日、雲南省保山飛行場に駐屯していたアメリカ陸軍輸送隊のパイロットであったジョンソンさんと副操縦士のロールさん、電信業務員のカーピルさんは、 ― 輸送機で空輸を行っていた。夜11時、航空機は保山飛行場から50キロ余り離れた永平県杉陽村の上空で失火し、3人は飛行機が墜落する前にパラシュートで降下した。

 これを見ていた現地の農民は、すばやく事故の現場へ行って3人を探し出した。羅光甫という農民は、ほかの村民と一緒にケガをしたロールさんとカーピルさんを背負って村に戻り、一番立派な木造の家に泊まらせ、傷を治療した。そして3日後、3人を保山飛行場へ送った。

往年のパイロット・カーピルさん(右)は2002年、ワシントンで57年前の命の恩人である羅光甫さんと再会した

 あれから半世紀以上が過ぎたが、パイロットたちは自分を助けてくれた杉陽村の村人たちを忘れたことはない。2002年、羅さんは中国がワシントンで開催した「歴史の記憶」という展覧会に参加した。84歳のカーピルさんは、3つの州から集まってきた自分の家族3世代を連れて、57年前に命を救ってくれた恩人と再会した。

 カーピルさんの娘さんは、「戦争は父の心に非常に暗い影を残しています。ここ数年、ようやく当時の話をするようになりましたが、思い出すたびに感情が高ぶり、言葉に詰まってしまいます。しかし、羅さんとの友情は永遠に忘れられないようです」と語った。

献身的なアメリカのパイロット

アメリカのパイロット・ムーニー中尉

 中国人を救うために献身してくれたアメリカのパイロットを、私たちは今でも忘れることがない。毎年の「清明節」は、中国人が先祖や亡くなった英雄を祭る日である。この日、雲南省祥雲県の人々は記念碑の前で、彼らの心中の英雄・アメリカのムーニー中尉を追想する。太平洋を隔てた向こう側、アメリカの北カンザスという小さな町にも、ムーニー中尉の記念碑がある。

 戦闘機のパイロットであったロバート・H・ムーニー氏は、第二次世界大戦期に昆明へやって来た。所属部隊に従って「駝峰航線」の要衝・雲南駅飛行場に駐屯し、飛行場と輸送機の護衛を担当した。1942年12月26日、日本軍の爆撃機が雲南駅飛行場を奇襲攻撃した。ムーニー中尉と仲間は、真っ先にP―40戦闘機に乗って日本軍の爆撃機の群れに突っ込んだ。この空中戦は非常に激しく、戦火で空が真っ赤に燃えた。

 ムーニー中尉が敵機を一機撃墜すると、他の敵機が一機、真正面から突っ込んできた。彼は身の危険も顧みず、敵機へ向かっていった。その敵機は左翼を折られて墜落した。彼の戦闘機も戦っているうちに火が出て、祥雲県の県都へ墜落していった。人口が密集する県都に落ちないよう、ムーニー中尉はパラシュートで逃げるタイミングを放棄し、頑強に戦闘機を操縦した。

終戦から50年後、ムーニー中尉の妹のエナさんは、歴史の目撃者である中国の老人たちと彼らの子孫を訪問した

 落下のための必要な高さがすでになくなっていたので、戦闘機から飛び降りた際、パラシュートは完全に開かなかった。ムーニー中尉は田地に鈍く落下し、強風にあおられて数百メートル引かれ、重傷を負った。

 この手に汗を握る場面を目の当たりにした人々は、戦闘機が県都の後の山で爆発した後、救助のために次々に走り出した。しかし、ムーニー中尉は重態で、尽くす手もなく亡くなってしまった。

 祥雲県の人々は、県都を守ってくれたムーニー中尉を記念して、進んで金銭や物資を寄付し、「アメリカ空軍ムーニー中尉の殉職記念碑」を建てて哀悼の意を表した。

「駝峰航線」がつないだ国際恋愛

ジョンさんと施正芳さんの結婚写真

 戦争とは残酷なものである。だからこそ、そこに生まれる人と人との美しい物語に、私たちは感動させられる。「駝峰航線」は、英雄的な路線であるだけではなく、ロマンチックな路線でもあった。パイロットたちは、英雄として尊敬されたばかりではなく、現地の少女たちから恋い慕われた。

 1942年に中国へやって来たジョンさん(22歳)は、第14航空隊の輸送機パイロットだった。彼は何度も危険を冒して「駝峰航線」を飛んだため、アメリカ空軍の最高栄誉である「飛行十字軍章」を2回授けられた。1945年、彼は現地の少女・施正芳さんと戦火の中で恋に落ち、二人は結婚した。ジョンさんは親愛の妻にルイーズというアメリカ名を付けてあげた。彼は妻を非常に愛し、自分の写真を贈った。写真には、「親愛なる妻・ルイーズに贈ります。あなたは私の最愛の人です」と書かれていた。

 

 この誠実でロマンチックな国際恋愛は、昆明の人々に美しい話として今でも伝えられている。当時、ジョンさんは昆明を離れる際にはいつも、施さんの家の上空を低く飛び、翼を揺らした。施さんも屋根に上がり、夫に手を振った。

 不幸なことに、1947年1月、ジョンさんはある航空事故の犠牲になった。彼らの娘は生後5カ月だった。2002年、施さんは、昆明からワシントンへ赴いて、関連の記念イベントに参加し、ジョンさんの写真を彼の戦友たちに贈った。

 今日、私たちが歴史を振り返るのは、反ファッショ戦争に貢献したアメリカ兵や彼らの親族に敬意を表し、中国とアメリカの両国民の友好を促進するためである。
(写真提供・雲南省人民政府新聞弁公室)

 


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