特集二       人と人とが築く中日友好

父、孫平化と中日国交正常化

                          孫暁燕 中国出口信用保険公司副総経理

井上靖氏の葬儀に参列した孫平化氏(中央)と孫暁燕さん(右端)、左端は井上夫人(孫暁燕さん提供)

 私が生まれた1952年、新中国は初めての日本の客人を迎えました。高良とみ、帆足計、宮腰喜助ら5人からなる日本の国会議員代表団です。彼らはモスクワで開かれた国際経済会議に参加したあと、毅然として回り道をして、北京にやって来たのです。

 当時、日本政府は、日本の代表団が中国を訪問することを禁じていたので、この5人の日本の友人は、きわめて大きな政治的危険を冒してやって来たのです。廖承志先生は「彼らは法を犯すことを恐れず、中国の大門を押し開く勇士である」と称えました。彼らを接待した中国側の接待組長が、わが父、孫平化でした。

 父は、遼寧省に生まれ、1939年から東京に4年近く留学しました。新中国成立後は、彼はずっと周恩来総理や廖承志先生の指導の下、日本に関する仕事に従事していました。今思い起こせば、あの当時、彼はいつも非常に忙しく、休みの日でも、その姿を見ることはなかったのです。

 後に父は、廖承志事務所の駐東京連絡所の首席代表として日本に行き、仕事をしました。1966年までずっと日本にいて、文化大革命が近づいてから中国に帰ってきました。

 当時、私は陝西省北部の農村で労働に参加していました。1972年のある日、私は野良で働いているとき、突然、村の大きなスピーカーが「孫平化同志が上海舞劇団を率いて日本を訪問する……」と放送しました。私はボーッとなってしまいました。本当に長い間、父と会っていないのに、突然、「孫平化」という名前を聞いたから、大脳がしばらく反応しなかったのでしょう。

 父の日本訪問団が帰国したとき、私はとくに北京に行き、父を迎えました。そのとき彼は、白いワイシャツを着ていて、襟を広く開けて、すっかりリラックスした様子でした。シャツのポケットには、1束の鍵を入れていました。同僚が「孫さん、どうして鍵をそんなところに入れておくのですか。お辞儀をすれば落っこちてしまいますよ」と言うと、父は笑って「私は一カ月以上もずっとお辞儀をしてきたのです。少しはリラックスさせてくださいよ」と言いました。

孫暁燕さん

 彼らが帰ってきて間もなく、9月になって、田中角栄首相が中国を訪問し、中日両国は正式に国交を正常化しました。私はやっと、父がやってきた仕事はすべて、この一瞬のためだったことがわかりました。

 その後、私は大学に合格し、日本語を学びました。父はこれに対し何も言いませんでしたが、賛成していると私は感じていました。

 日本に行くたびに、父はいつもさまざまな集会に参加しました。彼の日本の友人たちは、日本社会のどの分野にもいました。「友人たちといつも往来することによって、感情が少しずつ蓄積されていく」と父は言っていました。実際、現在の中日両国の交流の成果は、父の言うように、両国の友好人士が少しずつ積み上げてきたものではないでしょうか。

 中日国交正常化からすでに30年以上経ちます。両国は経済貿易から政治、文化の分野まで、大きな発展を遂げました。両国関係を処理する中では、両国の人々は、「痛定思痛」(ひどい痛みが収まったあと、以前の苦痛を思い起こす)の精神で、誠意を持って対応しなければならないと思います。また民間外交を展開するにも、同様に、知恵が求められているのです。




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