混声合唱組曲『悪魔の飽食』   全国縦断コンサートプロデューサー  持永伯子     
 
中国のアニメの発展に尽力した父
 
 

『人民中国』雑誌社を訪問した筆者
 日本の敗戦が色濃かった1945年5月、父・持永只仁は体調を崩し(身体障害者のため兵役を免れていた)、静養のため、母、祖母、そして私を伴って母方の両親が住む新京(現・長春)へ向かい、福岡県博多港を目指していた。

 当時は朝鮮半島を経由して、中国に入るのが最短距離で安全でもあった。しかし、博多は空襲に遭い、港は機雷で封鎖され、連絡船の出航は山口県仙崎港とわかったため、汽車を乗り継いで仙崎へ急いだ。

 食料は私が食べるにぎり飯だけとなったが、救命胴衣をつけ急いで乗船、翌朝には釜山に到着。釜山の市場には食料が何でも揃い、高いお金を払って少しだけの食料を買い、新京への列車の人となる。翌夜、到着した。

波乱万丈の人生の幕開け

 新京には「満州映画協会」(満映)という国策の映画会社があり、そこには2000人の人が働いていた。父は元芸術映画社のシナリオ作家が満映で働いていたことを知っていたので、その人を訪ねたが不在。あとから電話がかかり、「ぜひ会いたい」ということでスタジオでお会いすることになった。

 静養に来たので、始めは満映に勤務することなど何1つ考えていなかったが、要請もあり、また、スタジオを訪問して眠っていた映画魂が目を覚まし、結局協力することになった。運命の分かれ目は敗戦の直前に満映に入社したこと、中国も抗日戦争の最後の段階に入り、その後国内戦争に突入し、歴史の大転換のときに渦中にいたことである。

 父の波乱万丈の人生がここで始まり、私たちの家族も父と共に中国大陸での生活を余儀なくされるが、個々での体験は私の日中友好の原点であり、他では代えがたい貴重な体験をすることになる。

 父は中国に渡る前、いくつかのセル・アニメーションの作品を発表していて、業界では結構知られる存在で、草分けの1人でもあった。中国でもその技術を買われて、指導的な立場にあった。

 満映の職場で一番気がついたことは、中国人への待遇が酷いことであった。青年たちを雑役に使い、映画合成の仕事につきながら、机1つ与えていなかった。父には考えられないことだった。倉庫には机がたくさんあったが、活用されていなかった。

 父は係長に机を1人に1つずつ与えるよう要求することから始めたという。おとなしい父が口論までして机を獲得したことを中国の人は聞いていた。このことにより、中国人の信頼を一気に得ることになる。

 8月15日に日本が敗戦を迎え、私たち家族は大陸に放り出されることに。いつ日本に帰ることができるか、不安な毎日を過ごしていた。満映解散時にお金を少しもらっていたが、残り少なくなっていた。

中国映画の発展に協力

興山にて(左端が持永氏、中央は持永氏と一緒に仕事をした服部保一氏、右端は筆者の祖母、手前は筆者)

 9月頃、父が中国人の町で買い物をしていた時、「先生、先生」と呼び止められ、見るとあの机を運んだ青年ではないか。聞くところによると、父をずっと探していたという。「10月から仕事を始めます。来てください」。彼らは東北映画工作者連盟(後の東北映画会社)という組織を作り、自分たちの映画を作るべく、意欲に燃えていた。

 10月に父は要請に応えて、再び元満映の門をくぐる。当時、ソ連軍の撤退、国民党の侵入そして撤退、代わって民主聯軍が入ってくるという目まぐるしい情勢の変化であった。このとき父は、2回も国民党軍によって拉致され、監禁されるが、「東北映画工作者連盟」の職員カードを胸につけていたので、後で発見され、命は救われた。

 1946年5月中旬、舒群さんが来て、ハルビンへの移動の話があった。「当面、日本人の皆さんの帰国の見通しはない。衣・食・住、生活のいっさいを責任持ちます。もし、安全に帰国できるようになれば、いつお帰りになっても結構です。その日までわれわれにご協力ください」

 父はその話に偽りはないと思ったという。つまり、中国共産党の指導のもと、本格的に映画の仕事を始めるので、ぜひ協力してほしいということであった。舒群さんの灰色の軍服にはいくつもの繕いがしてあり、長い戦闘を物語っていた。物腰の柔らかい話ぶりに引きつけられるものがあった。

 父は自分の技術が役に立てるものならと、すぐ賛同。満映の機材をすべて積んで、日本人、中国人の映画人とその家族が3班に分かれての民族の大移動が始まる。父は動画撮影台の搬出の指示がないので、「この機材がなければ、自分の仕事はできない」と訴えて、自分で機械を分解し、搬出した。

 ハルビンに着き、宿舎に落ち着いたが、戦局の変化を考えて、再び移動。佳木斯に向かう。佳木斯でも水質、工作員の宿舎のことを考えて、さらに奥の興山(現・鶴崗市)に辿り着く。6月1日のことだった。

 興山は炭鉱の町だった。ソ連との国境地帯で、冬は零下30度にもなるが、父は人生の中でもここでの生活が一番楽しかったといつでも口にしていた。

 住まいの建設は全部自分たちで行った。何も無いなかで、何から何まで創造的に仕事をしなければ何も生み出せなかった時代であった。

数々の映画を生み出す

 10月1日、「東北電影製片厰」が成立し、新中国の映画根拠地になる。延安そして全国から、30年代からの映画人、文芸活動家がここ興山に集結してきた。ニュース映画『民主東北』、科学映画『預防鼠疫』(ペスト予防)、短編映画『留下他打老蒋』(彼を残して蒋介石と戦わせる)の製作、そして父はアニメーション作品『甕のなかで捉えたスッポン』『皇帝の夢』の2作品を監督し、アニメートした。その他、根拠地では長編劇映画の準備、外国映画の翻訳の準備、映画人の養成のための研修班ができ、来るべき新中国映画事業のための準備が着々と進められていた。

 祖母は日本での教師の経験を生かした。付属の保育園、幼稚園の指導者として信頼を得、実質的な園長として活躍し、その活動は今でも語り種になっている。母も保母として活動した。私と妹はそれぞれ幼稚園と保育園で生活した。そのときの幼なじみとは58年たった今でも友情を温めているが、きら星のごとく輝く中国映画界の重鎮の子弟ばかりで、その存在は私の誇りでもある。

 

 
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