【あの人 あの頃 あの話】M
北京放送元副編集長 李順然
張おばあさんとワラビの味噌あえ

 1965年から1966年にかけての1年、私は朝鮮との国境に近い中国・東北地方の通化からバスで半日、さらに馬車で半日という山奥の一寒村で過した。

 ここの農民と同じものを食べ、同じところに住み、同じように働くという「三同」の生活をしていたのだ。

中国・東北部の吉林省の一寒村で「三同」にいたころの筆者(前列中央)

 この「三同」は、知識人の「思想改造の一環」として、当時の政府の呼びかけで進められたものだが、その是非についてはいろいろな見方がある。だが、都会育ち、しかも日本の東京で育った私にとっては、中国の農村、中国の農民を知るうえで、とても貴重な春夏秋冬だった。

 タイトルの「張おばあさん」は、ここでわたしがお世話になっていた農家の王おじいさんのつれ合いである。張おばあさんは、自分の息子のように私を大事にしてくれた。

 ここの冬は、膝までの深い雪に覆われ、零下3、40度という日もあったが、張おばあさんはいつもオンドルのいちばん暖かいところに私の布団を敷いておいてくれた。

 春になると、張おばあさんは雪の残る山に登って、ワラビを摘んできて、自家製の味噌を添え、朝食に出してくれた。「おいしい」と言うと、山にワラビが無くなるまで、毎日、毎日、ワラビの味噌あえを食べさせてくれた……。

 ある日、この張おばあさんからこんな話を聞いた。日本が無条件降伏した年のことだ。北の方から大勢の日本人が逃げてきた。その中には、母乳がなく、おなかをすかして泣きたてる乳児もいた。乳のある村の女性たちが見かねて、自分の乳を飲ませたというのだ。張おばあさんも、その一人だったらしい。

 私は、この村の裏山に登ったとき、一面に太い切り株だけを残している裸の山肌を見たことがあった。ここに代々根を下ろし、枝を伸ばしてきた松を、日本軍が残らず伐り倒して持ち去ってしまったのだと、村のお年寄りは話していた。

 この山の麓には、日本軍が残したトーチカの残骸があった。この一寒村にも、戦争の傷跡は深く残されていたのである。

 伐り倒された松の切り株、トーチカの残骸……こうした風景が張おばあさんの話と重なりあって、私の心は複雑だった。

 だが、日本の乳児にすすんで乳を飲ませた村の女性たちについて語る張おばあさんの表情にはごくごく当り前のことをしたまでで、乳を飲ませてやったのだとか、恵んでやったのだとかいった恩着せがましいものは、いささかも感じられなかった。

 張おばあさんは読み書きもできない。もちろん、外国語などとはまったく縁がない。だが、張おばあさんは、すべての人に温かく接し、すべての人を人間として、心底から大切にする心を持っていた。ときには、国境や人種をも越えて。

 この点からいえば、張おばあさんは立派な国際人ではないだろうか。わたしは、国際人の原点のようなものを、思い出のなかの張おばあさんに、また日本の乳児にすすんで乳を飲ませたという中国の一寒村の女性たちに、感じるのだった。



 
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