【あの人 あの頃 あの話】P
北京放送元副編集長 李順然
「四害」をめぐる思い出

 1958年のことだ。戸外でも寒くなかったから、春か、夏か、秋だったようだ。わたしは「スズメ退治」で忙しい1日を送った。

 実は、四害(ネズミ、スズメ、ハエ、蚊)を7年以内に基本的に退治せよ、という「除四害」の通達が出され、その一環としての北京市あげての「スズメ退治」に参加したのだ。これら「四害」は、穀物を食い荒らしたり、伝染病流行の媒体となるので退治しようというわけだ。

 その日、北京市民は東の空が白むのを合図に、バケツ、洗面器、お鍋など、たたけば音のでるものを手にして街角に立った。そして、スズメの姿を目にすると一斉にバケツや洗面器、お鍋などを「ジャン、ジャン、ジャン」とたたいて、スズメの「着陸」を邪魔する。こうすれば、クタクタになったスズメが地に落ちてくるというのだ。わたしは陽が暮れるまで、バケツをたたいてスズメを追いまわした。どれほど効果があったかは、落ちてきたスズメを目撃していないので、なんともいえない。

1976年10月、北京で580万人が参加した『四人組』打倒を祝うデモ

 この人海作戦は、北京だけでなく中国各地でもおこなわれたようだ。日本でも評判になったユン・チアンの『ワイルド・スワン』(講談社)にも、北京を遠く離れた中国西南部の四川省成都での「スズメ退治」の模様が記されている。まだ小学生だったユン・チアンも「スズメ退治」に参加していた。

 でも、スズメはしたたかだ。「スズメ退治」を生き抜いたスズメたちは、北京の街で子孫を育て続け、高層ビルの林立する今日の北京でも「チュ チュチュ」という明るいスズメの鳴き声が聞かれる。「スズメ退治」に参加した一人としての罪ほろぼしとでもいうのか、わたしはマンションの12階の部屋のベランダの片隅に、よく米粒などを置いて、スズメを「ご招待」している。

 ところでこの「スズメ退治」には異論も出た。スズメも害虫を食べる益鳥だというのだ。こうした声に押されて、1960年には、スズメは益鳥として「名誉回復」し、「除四害」のリストから削られ、替ってナンキンムシが加えられた。

 このころから、「除四害」の3文字は、新聞紙上からだんだん消えていったが、20年近くたった1976年に、再びこの3文字が新聞紙上を賑わす。

 こんどは「ネズミ、スズメ、ハエ、蚊」ではなく、文化大革命の10年間、民衆をいじめにいじめた「江青、張春橋、王洪文、姚文元」という四害だ。いわゆる悪名高い「四人組」である。1976年10月6日の「四人組」逮捕という快挙を、新聞各紙は「除四害」という3文字を使って伝えた。

 ときまさに「秋高気爽、菊黄蟹肥」(秋の空高く澄みわたり、黄菊咲き蟹肥える)の季節、北京市民は菊香る秋空のもとで、中国全土に害をなした女1人、男3人の「四人組」とからめて、メス蟹1匹、オス蟹3匹を肴にし祝杯を挙げ、この快挙を祝った。北京の街は、終日、ドラや太鼓で賑っていた。

 もう、あれから30年近くなる。「文化大革命」の10年は実に長かったが、この30年はなんと短いことか。古稀も過ぎたわが身、残された1日1日を大切にして生きたいと思う。



 
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