長安の「大唐国門」の謎が解けた
                                    沈暁寧=文 考古雑誌社=写真提供

5本の門の城門の遺構が、丹鳳門の謎を明らかにした

 2005年、中国の考古学界は、千カ所以上の新しい歴史遺跡の発見に沸いた。その中で、もっとも学術的に価値のある6件の発見が、権威のある社会科学院考古研究所の審査の結果、「2005年中国考古のベスト6」に選ばれた。

 中でも注目されるのは、唐代に建てられた長安城大明宮の丹鳳門の遺跡である。大唐国の表玄関であった丹鳳門の存在は、以前から分かっていたが、その構造には数々の謎があった。今回の発見は、長い間の論争に終止符を打つものだった。

歴史の舞台となった丹鳳門

丹鳳門遺跡で、専門家と発掘について相談する西安唐城考古隊の隊長のキョウ国強博士(中央)(写真提供・キョウ国強)

 陝西省の省都の西安市は、かつて唐王朝(618〜907年)の首都であり、当時は長安と呼ばれた。唐の皇帝のほとんどは、長安城の東北部にあった大明宮で暮らし、そこで内政や外交を処理した。

 丹鳳門は大明宮の真南にある門で、唐の皇帝が宮廷に出入りする門道でもあったし、大赦や年号の変更を宣する場所でもあった。だからこの門は、国家と皇帝の権力の象徴となり、「大唐国門」としての地位を占めていた。そのため、丹鳳門の建築規模は、当時の全国すべての城門の中で最大のものだった。

 文献の記載によると、丹鳳門は、唐の高宗の竜朔2年(662年)に建設が始まった。北は、大明宮の正殿の含元殿に面し、丹鳳門と含元殿の間は、もっぱら皇帝の御道に供された。

 丹鳳門を出ると、南は、南北に走る丹鳳門大街で、長さ1500メートル、幅176メートルあり、唐王朝で最大の街道であった。丹鳳門の東と西の両側には、望仙門と建福門があり、文武の百官はみな、この2つの門から宮城に出入りしたのだった。

国際古跡・遺跡理事会のメンバーが、丹鳳門遺跡の発掘現場を見学した(写真提供・キョウ国強)

 289年にわたる唐王朝の変遷の中で、丹鳳門は少なからぬ歴史的事件の舞台となった。唐の開元18年(730年)、時の皇帝玄宗は、丹鳳門上に、朝見に来た蘇禄国(西突厥の一国家)の使者を招いて宴会を催したが、ちょうどそのとき、突厥の使者も長安にいたので、玄宗は突厥の使者もいっしょに宴会に招くよう詔を下した。

 しかし突厥の使者は、当時、蘇禄国は突厥に従属していると考えていたので、蘇禄国の使者を自分の下座に座らせるよう要求した。だが、蘇禄国の使者は、今回の宴会は、唐の皇帝が彼のために設けてくれたもので、自分こそ主賓であり、宴会での席次は突厥の使者より低くてはならないと考えた。

 最後に、大臣たちの調停で、突厥の使者は皇帝の左側に座り、蘇禄国の使者は皇帝の右側に座ることで、やっと落ち着いた。

 天宝13年(754年)8月15日、玄宗は、丹鳳門上で各国の使節とともに中秋節を過ごし、日本の遣唐使の藤原清河らの帰国を歓送した。酒宴のさなか、玄宗は、「晁衡」の名前で唐に仕えていた阿倍仲麻呂を、唐の奉還使として、遣唐使といっしょに日本を訪問するよう命じた。

 しかし、はからずも、彼らを乗せた船は帰国の途中、嵐に遭って難破してしまった。晁衡と親交のあった李白は、晁衡が遭難したという知らせを聞いて、非常に悲しみ、有名な「晁卿衡を哭す」と題する詩を書いた。

丹鳳門の門道に残った壁と並んだ柱の穴

  日本の晁卿 帝都を辞し
  征帆一片 蓬壷を繞る
  明月帰らず 碧海に沈み
  白雲愁色 蒼梧に満つ

 実は、阿倍仲麻呂は生還したのだが、この詩は、中日友好の千年の歴史を伝える名作となった。

 至徳2年(757年)、唐の粛宗は、丹鳳門で百官に対し論功行賞を行った。806年、唐の憲宗は、含元殿で群臣の朝賀を受けたあと丹鳳門に登り、天下に大赦を宣布し、年号を元和に改めた。このほか唐の歴代皇帝の多くが、丹鳳門上で、各種の祝典を挙行したので、丹鳳門は、皇帝の恩沢を示す場所となった。

丹鳳門遺跡で発見された「天宝」の年号のある瓦片。「天宝」は唐の玄宗皇帝の時代で、742年から756年まで

 880年、黄巣が率いる農民の武装蜂起軍が長安城に攻め込んだ。黄巣は丹鳳門上から農民政権である「大斉」の樹立を宣言し、年号を「金統」に改めた。その武装蜂起は結局、唐王朝によって鎮圧されたが、それ以後、大唐帝国は名ばかりの存在となってしまった。

 904年、河南を統治していた宣武節度使の朱全忠が、唐の昭宗に迫って、都を洛陽に遷した。そして、後に人々が再び長安に戻らないよう、長安城内の宮殿や官邸、重要な施設をすべて焼いた。

 丹鳳門は大明宮とともに、廃墟と化した。3年後、朱全忠は、皇位を簒奪し、後梁を打ちたて、唐朝は滅んだ。

謎に満ちた門道の数

 丹鳳門は、唐の歴史上、重要な地位を占めているので、その発掘は、非常に高い学術的な研究価値を持っている。第一回の発掘は、1957年から1959年まで行われた。ボーリングによって、この門の遺跡は3本の門道(通路)があり、文献に記載されたような5本の門道ではないことがわかった。この食い違いは、当時の研究者にとって難解な謎となった。

 中国の古代においては、最高レベルの城門は五門制だった。丹鳳門は、宮城の真南の門なので、5本の門道がなければならない。唐の文学者の李華は『含元殿の賦』の中で「10扇(扉)開閉す」と書いている。宋の呂大防の石刻『長安城図』にも、丹鳳門に5本の門道が記載されている。そのため、建築史の専門家、傅熹年らは、丹鳳門には5本の門道があったと考えた。

丹鳳門の門楼に葺かれた精巧で美しい瓦当

 しかし、実際に考古学的に発掘してみると、3本の門道しか発見されなかった。しかも真ん中の門道は、大明宮の中軸線から外れており、これも中国古代の対称やバランスを重視する建築理念に反していた。
 
 「歴史の記載と考古学の発見との間にずれが生じたときには、考古学の発見を正しいものとする」という原則に従って、古代の文献の信憑性に疑問を抱き始める人もいたし、懸命に丹鳳門に3本の門道しかないことの合理性を追求する人も、また引き続き5本の門道の存在を信じる人もいた。

 当時、丹鳳門遺跡の周囲には、多くの民家が建っていて、さらに発掘範囲を拡大するわけにはいかなかった。このため丹鳳門の本当の姿に関して、考古学界と歴史学界では意見がまちまちで、結論は出なかった。

  だが2005年6月、西安市政府の協力で、丹鳳門遺跡の大規模の発掘がスタートした。含元殿前の長さ600メートル、幅400メートルの範囲にあった現代の建築物は全部取り壊され、よそに移転した。中国社会科学院考古研究所のキョウ国強博士が西安唐城考古隊を率いて、丹鳳門の謎を解く仕事を始めた。
 
  地上の建築物に邪魔されることがなく、発掘は順調に進んだ。鴟尾(宮殿や仏殿の屋根の両端に付けた装飾)、門釘(大きな扉につけられた飾りの釘)、陶磁器などの文物が新たに出土した。もともとわかっていた3本の門道はさらに整理され、丹鳳門の本来の姿を知るためにさらに詳しい確実なデータが得られた。しかし、もっとも肝心な、門道の数の謎を解くためには、決め手となる大きな進展はなかった。

赤い土が謎を解く鍵に

丹鳳門の遺跡から出土した、「官」の文字のある磁器の破片

 誰もが手の打ちようもなくなったとき、一つの偶然の発見が、重要な手がかりを提供した。2005年12月のある日、考古隊で働く一人の農民が、発掘現場を片付けていた。そのときキョウ博士は突然、農民の足元の土が赤い色をしていると気づいた。
 
  多年の考古学発掘の経験から、彼はその中に必ず何かが隠されていると感じた。そこで彼は、一握りの赤い土を手につかんで、ほかの考古隊の専門家たちと研究を始めた。その結果これは、火に焼かれた土であることが分かった。

  当時、丹鳳門は、大火で焼かれたことは分かっている。これと赤い土は何か関係があるのだろうか。考古隊は、ただちにこの赤い土の調査を始めた。その結果、赤い土は10平方メートル近い面積に分布していて、一番近い門道までの距離は、門道と門道の間の距離とほとんど同じであることがわかった。
 
  キョウ博士は、これがたぶん、丹鳳門の第四の門道であろうと感じた。しかし、学術的な厳密性から考えれば、この推測にはさらに有力な証明が必要だった。
 
  その後の発掘の中で考古隊は、この赤く焼けた土の上に、城門を支えるために立てられた木の柱の穴を発見した。しかもその配列の形は、すでにわかっている3本の門道のものと同じであった。こうして、夢にまで見ていた第4の門道をついに探し当てたのだった。

中国社会科学院考古研究所の白雲翔副所長(写真・沈暁寧)

  キョウ博士は引き続き隊員を率いて、第4の門道の東側を探索し続けた。果たせるかな、第5の門道もその手掛かりが現れてきた。ただ、それはかなり酷く毀損されていたため、完全に人々の前に姿を現すことはできない状態だった。
 
  丹鳳門の5本の門道がすべて発見されたことで、50年以上にわたる謎に終止符が打たれた。中国社会科学院考古研究所の白雲翔副所長は「丹鳳門遺跡の発見は、歴史文献の記載を実証し、いままでの考古学の認識を修正した」と評価している。

遺跡の保護と復元

 現在、丹鳳門の雄大な全貌が、次第に明らかになってきている。この大唐の国門は、南向きに建てられていて、幅75メートル、高さ20余メートル、同じ大きさの5つの四角い門洞が開けられている。門洞はいずれも幅9.4メートルで、現在の北京の天安門の門洞と比べると倍近い。門洞の奥行きは30数メートルあり、両側にはそれぞれ18本の梁を支える木柱があり、いずれも半分は壁に嵌め込まれ、半分は外に露出している。 

 丹鳳門の真ん中の門洞を抜けると、長さ600メートルの御道を経て、大明宮の正殿である含元殿に達することができる。丹鳳門の背後には、城壁に沿って二筋の斜面状の馬道(馬が走ることのできる道)が造られていて、その東西のスパンは、全長200メートルに達する。

  当時の皇帝は、この馬道から城楼に登ったのだ。今度の発掘で、丹鳳門の城楼の屋根にあったと見られる鴟尾の破片が出土した。その破片の模様から、この鴟尾は高さが2メートル近いものに違いないと推測された。これをみても、当時の丹鳳門がいかに壮観であったかが分かる。

丹鳳門遺跡を試掘する考古学者たち(写真提供・キョウ国強)

  キョウ博士はこう述べている。

 「丹鳳門が中国最大の城門であるとは言い切れないが、少なくとも隋唐の時代では、この門の右に出るものはなかった。丹鳳門は、中国古代の都城と古代建築史を研究するうえで、直接的な科学的資料である。国際古跡・遺跡理事会のメンバーがここを見学したが、この発見に驚嘆していた。日本と韓国の考古学者も視察に来たが、日本の平安京や韓国の清州城の研究にとってこれが非常に高い参考価値があると考えている」

  現在、丹鳳門遺跡をどう保存するかが重大な課題となっている。ある人は、風化によって破壊されないよう、50センチの土を盛って遺跡を覆うよう提言しているし、またある人は、遺跡の上に丹鳳門を再建し、昔の雄姿をよみがえらせようと提唱している。

2005年の中国考古学
その他の重要な発見


北京市門頭溝区東胡林村の先史遺跡

 今から1万年ほど前の北京市東胡林の先史遺跡は、北京市門頭溝区斎堂鎮の東胡林村にあり、新石器時代早期の重要な遺跡である。この遺跡は1966年に発見され、2001年と2003年に考古隊が、豊富な打製石器や動物の骨を発掘し、一定量の陶片や骨器、貝器などの遺物を発見した。

 その中でも、古人類の人骨は、山頂洞人以来の北京地区の人類発展史における空白を埋めたものであった。

 2005年8月から11月まで、東胡林考古隊は、3回目の遺跡発掘を行った。今回の発掘では、「火塘」(土間に作りつけた囲炉裏)や墓葬、住居址などの遺跡と豊かな動植物の遺物を発見しただけでなく、完全に保存された新石器時代早期の墓葬を発見した。これは、竪穴の土坑墓で、墓主は、膝を折り曲げて埋蔵されており、その頭のそばには小さい石斧と数枚の穴が開けられた小さな巻貝が副葬されていた。これらは墓主が生前に使っていた装飾品に違いなかった。

 同時に考古学者たちは、遺跡の中でさらに古い、火を焚いた遺跡と打製石器を見つけた。これはさらに古い時代の古人類や文化的遺物の研究に、重要な手がかりを提供している。

湖南省洪江市の高廟新石器遺跡

 湖南省洪江市の新石器時代の高廟遺跡では、考古学者は7000年ほど前の大型の祭祀に使われた場所を発掘し、整理した。総面積は約1000平方メートルで、その中に祭祀坑や穴蔵、祭祀に使われた家屋などの遺跡があった。出土した陶器には、構想が精巧ですばらしい鳳や獣面、八角の星などのデザインがあった。これは同じ時期の中国の遺跡ではめったに見られないものである。

江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土トン墓

 2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、土を盛った墓である土トン墓群の大規模な発掘を行った。あわせて40の土トン墓を発掘し、233の墓葬と14の墓葬建築遺跡を整理した。幾何学模様の陶器、原始的な青磁器を主とした、江南地方の特色がある各種の文物3800件余りが出土した。

 今回の発掘によって、青銅器時代における江南の土トン墓造営のプロセスが完全に明らかとなった。発掘後の整理によって、船形棺の葬具、石の寝台、墓の上に建てられた木造の山形をした掘っ立て小屋の存在が明らかとなり、これによって江南の土トン墓文化の内容がきわめて豊富になった。特に、土トン墓の形、構造、埋葬、祭祀習慣などの多くの面で重大な新発見があり、商(殷)、周時代の中原文化と土着の文化との関係や中華文明の一体化の過程などの重大な課題の研究にとって、重要な意義を持っている。

山西省遲県横水鎮の西周古墳

 中国古代の文献には、西周時代に「ホウ国」と呼ばれる小さな諸侯国があったが、ずっと発見されずにきた。

 2004年末から2005年にかけ、山西省考古隊は山西省遲県横水鎮で、西周の墓を発掘した。80余りの墓葬を整理したが、その中から「ホウ国」の君主である「ホウ伯」とその夫人の銘がある青銅器が8点、発見され、専門家の研究によって「ホウ国」の存在が実証された。これは、山西の文化と西周の歴史をさらに全面的に認識するうえで、きわめて重要な新しい資料を提供するものである。

新疆ウイグル自治区于田県 流水村の青銅時代の墓地

 新疆ウイグル自治区于田県流水村にある青銅器時代の墓地は、崑崙山の北麓で初めて発見された青銅器時代の墓葬であり、今までにそこで発見された最も古い古代文化の遺跡でもある。

 興味深いことには、ここで出土した陶器は、模様から形まですべて、新疆の他の地域の陶器とかなり大きな違いがあることである。チベット自治区や甘粛省、青海省、さらには中央アジア、西アジア地域の同時代の陶器と似ているところがある。しかも、ここで出土した銅や金でつくられたイヤリングの形式は、シベリア地域のものともきわめて似ている。

 これらは、3000年前に崑崙山の北麓ではすでに、異なる民族間の文化交流がすでに行われていたことを示している。同時に墓葬の中からモンゴル人種、モンゴル人亜種(チベット人)とヨーロッパ人種が発見されたことは、さらにこの地が種族の混住の程度が高かったことを証明している。



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