【あの人 あの頃 あの話】R
北京放送元副編集長 李順然

批判会の当日、神風が吹いた

1964年、人民大会堂でスワヒリ語の専門家夫妻と会見した毛沢東主席(右から2人目)と金照氏(左端)
   例の「文化大革命」の10年(1966〜1976年)、中国の「人民」は、大雑把にいうと二種類の人間に分けられてしまった。当時の言葉でいう「革命の動力」と「革命の対象」である。「革命の動力」が「革命の対象」を批判・闘争する十年だった。

  こうした中で、私はブルショア階級出身、しかも中国放送界最大の毒草(いちばん修正主義的な番組)の執筆者とあって、「革命の動力」にはしてもらえず、そうかといって管理職でもないので「資本主義の道を歩む実権派」になる「資格」もなく、「革命の対象」にもなれなかった。

  そこで、「資本主義の道を歩む実権派」に重用された「修正主義の苗」という、ちょっと可愛らしいレッテルを貼られて、「動力」でも「対象」でもない中途半端な存在となり、小さくなって毎日を過ごしていた。

 そんなある日、私は造反派のリーダーに呼びだされた。北京放送最大の「資本主義の道を歩む実権派」である金照・北京放送局局長の批判会で発言しろというのだ。

  「君は金照一味に重用された。金照は、君の書いた番組を各番組の手本にしようとした。金照を批判して一線を画すべきだ」

 それからの数日、金照氏批判の発言の準備をしようとしたが、一向に筆がすすまない。まず「金照!」と呼びつけにすることができないのだ。どうしても「金照同志」になってしまう。「革命の対象」を「同志」と呼ぶことは許されない。私は、批判することが批判されることよりよっぽどつらいと何回も思った。

 そうこうしているうちに、批判会の日が来た。まったく批判にならない「批判」を並べた発言原稿を持って会場に行った。

  会が始まる寸前のことだった。一天にわかにかき曇り、ものすごい風が吹きだした。あちこちで風に飛ばされた窓が地に落ちる。あちこちで窓ガラスが割れる。それを追うように大粒の雹が降りだす。部屋の中も嵐のようだ。なん人かが窓を締めに立ちあがるが、古い木の枠の窓、あちらを締めればこちらが開くで、みんな左往右往……。

  司会者はあわてた。そして叫ぶように言った。「今日の会は中止、日を改めて開く」

  会場を出て行く金照氏の後姿を見ながら、私は思った。「今日の風はまさに神風だ」

  あの未完の批判会から20余年、21世紀も近づいているある日、偶然の機会に金照氏が書いた回想文を読んだ。「李順然同志は『全才』(万能)、自分で原稿を書き、自分でアナウンスをし、音楽を選び、編集し、番組を作った。彼の番組はリスナーからとても歓迎された……」と書かれているではないか。私は涙を抑えることができなかった。

 嬉しかった。金照氏は、一本のか弱い「修正主義の苗」をまだ忘れないでいてくれたのだ。そして思った。あの日、例の神風が吹いてくれなかったら、こんなに晴れやかに喜ぶことはできなかったかも知れないと。

 ちなみに、金照氏の「資本主義の道を歩む実権派」の罪状の一つは、私のような「修正主義の苗」を重用したことだった。金照氏は、どんなに叩かれても、「苗」が「修正主義」であることを認めなかった。


 
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