中日を結んだ天才音楽家 聶耳
                                                        于文=文 湘南日本中国友好協会=写真提供

聶耳の記念広場に再建された郭沫若の筆になる「聶耳終焉之地」の碑(写真・馮進)

 神奈川県の藤沢市にある鵠沼海岸は有名な保養地で、海に浮かぶ江ノ島と向かいあっている。海岸近くの公園の広場に、中国の作曲家、聶耳を記念する碑が建っている。聶耳は、中国の国歌『義勇軍行進曲』の作曲者である。

 7月17日は聶耳の命日。毎年この日が来ると、中国では、聶耳の本籍地の雲南省玉渓市と出生地の昆明市で、さまざまな記念行事が行われるが、日本では、この鵠沼海岸のこの碑の前に多くの日本の友人たちが集まり、聶耳への追慕の念を表すのだ。

日本で作曲された 『義勇軍行進曲』

聶耳の命日には、藤沢市民が聶耳の碑に献花する

 聶耳の本名は聶守信。1912年に生まれた。生まれつき音楽の才能に恵まれた彼は、音を聞き分ける耳が非常に鋭かった。それで「耳朶先生(耳さん)」というニックネームがつけられた。後に彼は、思い切って「聶耳」と改名してしまった。

 18歳の時、聶耳は上海に来て、その後、中国新興音楽研究会を組織した。また、映画会社の「聯華」やレコード会社の「上海百代公司」で、進歩的左翼の映画や現代劇、舞台劇のために作曲した。主な作品には『波止場労働者の歌』『卒業の歌』『大路歌』など、30余りの歌曲がある。

 1935年、田漢ら多くの左翼芸術家が相次いで国民党当局に逮捕された。田漢は後に『義勇軍行進曲』の歌詞を作った人である。

1937年10月、聶耳の遺骨は昆明に帰ってきて埋葬された。墓前で記念撮影した当時の親友たち

 その年の4月には、当局が聶耳を逮捕するつもりだという情報が伝わってきた。そこで共産党組織は、聶耳をまず日本に避難させ、機を見て、迂回して欧州かソ連へ行き、勉強するよう手配をした。

 当時、上海の電通会社が映画『嵐の中の若者たち(風雲児女)』を撮っていた。田漢が獄中でこの映画のテーマソングの作詞をしたが、煙草の箱に歌詞を書いて、人に頼んで監獄から持ち出したと言われている。

 日本へ行く準備をしていた聶耳はこのことを知り、自ら進んでその歌詞に作曲したいと言い、出発前に、分秒を争うようにして初稿を書きあげた。

 聶耳は4月18日、東京に着いた。落ち着くやいなや、彼はすぐに楽譜を直し始めた。5月の初、決定稿が完成し、書留郵便で上海に送られた。これが後に、中国版の『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)と呼ばれた『義勇軍行進曲』である。

『義勇軍行進曲』の作曲者の聶耳(左)と作詞者の田漢(右)

 この歌の奮い立つような旋律は、映画の上映とともに中国全土にくまなく伝わり、まさに侵略に抵抗し、反撃している中国人民を大いに鼓舞したのだった。

 新中国成立後、この歌は、中華人民共和国の暫定国歌に選定された。1982年には正式に、国歌となったのである。

 しかし聶耳は、日本に着いてから3カ月後の7月17日、藤沢市の鵠沼海岸に海水浴に行き、不幸にも水死したのだった。24歳の若さだった。

藤沢市と聶耳の縁

現在、昆明にある聶耳の墓と石像

 新中国が成立した翌年の1950年、藤沢市に住む福本和夫さんは、『人民中国』(英語版)で、新中国の国歌と聶耳に関する記事を読んだ。そしてすぐに、葉山ふゆ子さんに、この記事と『義勇軍行進曲』の歌詞の翻訳を頼んだ。

 ふゆ子さんの翻訳によってこれが日本全国に伝わり、人々は、この才能豊かな作曲家を敬慕し、彼の愛国精神に感動した。

 多くの藤沢市民は、聶耳が藤沢と縁があることから、彼に敬意と追悼の意を表したいと考えた。そこで彼を記念する自発的な活動が展開された。

 1950年11月には、「聶耳記念の夕べ」が藤沢市で挙行され、『義勇軍行進曲』が初めて日本で歌われた。翌年には、藤沢市に日中友好協会を設立するための準備会議が招集され、そこで福本さんが聶耳の記念碑を建てようと提案した。

 1954年、聶耳の記念碑は完成した。当時はまだ中日両国は国交を正常化していなかったが、双方の努力によって、11月、訪日中の中国紅十字会の李徳全会長が箱根へ行く途中、鵠沼海岸を通過する際に記念碑の除幕式に出席した。その後、郭沫若、廖承志ら多数の中国の要人たちが、ここに来て故人を偲んだ。

袁興燕さん(左から2人目)は、藤沢市の友人たちの援助で、中学に進学できた。訪れた日本の友人に、感激して抱きついた

 1958年、鵠沼海岸に台風が襲来した。その夜、葉山ふゆ子さんの息子で、後に藤沢市長になる葉山峻さんは、聶耳の記念碑のことが心配で、弟といっしょに膝までの洪水につかりながら記念碑を見に行った。彼らはそこで、小石交じりの大波が、記念碑を押し流すのをその目で見た。

 その後、記念碑の残骸はずっと海岸の松林の中に放置されていたが、1965年になって藤沢市議会が、記念碑の再建を正式に提起し、「聶耳記念碑保存会」に募金を委託した。

 募金活動には市議会や町内会、多数の市民からの積極的な反響があった。横浜華僑総会も全力で応援した。わずか数カ月で、募金額は400万円を超え、9月に記念碑は再建された。除幕式には、当時の廖承志東京弁事処の孫平化首席代表や藤沢市の多数の市民が参加した。

雲南と藤沢を結ぶ絆

 藤沢市民が聶耳の碑を建て、さらにその碑を大切にしているということは、聶耳の故郷の人々を感動させた。中国の改革・開放が絶えず発展するのにつれて、雲南省昆明市と藤沢市との友好往来は日増しに活発になっていった。

 1981年11月5日、藤沢市と昆明市は姉妹都市となった。ここから両市の政治、文化、経済、スポーツ、芸術、教育などの各分野での協力と交流が展開されていった。

藤沢市の援助で建てられた同心小学

 1996年2月、藤沢市の湘南日中友好協会に一本の電話がかかってきた。「中国の貧しい地区に学校を一校、建てたいのですが。あの戦争で被害を受けた人々へのわずかばかりの補償として……」。こう電話をしてきたのは、藤沢市在住の高校教師の酒井和林さんだった。

 不幸にして酒井さんはこの年の末、病のため世を去ったが、夫人が彼の生前の願いを受け継いで、湘南日中友協を通じて昆明市政府とすばやく連絡を取った。同時に、中国の「希望プロジェクト」(貧困地域への教育援助)への募金活動も、藤沢市で行われた。「湘南市民戦後補償会」など多くの団体や個人が次々に援助の手を差し伸べた。2カ月後、110万円の募金が、昆明市禄勧イ族ミャオ族自治県の九竜郷沙漁郎村に贈られた。その後、藤沢市に「中国教育支援基金会ふじさわ」が設立された。

 沙漁郎小学の校舎はもともと村の小さな廟で、1912年に建てられたものだった。教室は狭く、採光が悪く、長い年月、修理されないままだった。2回も地震に見舞われ、校舎は非常に危険な状態になっていた。

歌詞の大意

起て! 奴隷となるのを望まぬ人々よ
我らの血肉で
新しい長城を築こう
中華民族はいま、最大の危機に迫られている
誰もが最後の雄叫びをあげざるを得ない
起て! 起て! 起て!
万人が心を一つにして
敵の砲火を冒し
前進!
敵の砲火を冒し
前進! 前進! 前進進!

 1999年、藤沢市民の募金と昆明市政府の援助金とによって建てられた沙漁郎小学は無事、完成した。その後、藤沢市民は引き続き、机や椅子、教具を贈呈した。2001年には、小学校に新しい図書館ができた。

 袁興燕さんは、沙漁郎小学で学んでいたが、5年生のとき、学費の負担ができなくなったため、中途退学した。だが、藤沢市民の援助で、彼女は再び学校に戻ることができた。2004年、彼女は優秀な成績で、この辺りではもっとも難しい禄勧第3中学に合格した。

 しかし、父親が身障者で、家庭の年間収入が千元しかない袁さんにとって、中学の学費はやはり重い負担であり、彼女は再び退学の危機に直面した。ちょうどそのとき、藤沢市の「中国教育支援基金ふじさわ」の訪問団がやって来た。そしてこのことを知ると、即座に袁さんに500元の学費を渡したのだった。

 現在、藤沢市の募金で改築された2校目の「希望小学校」である同心小学はすでに使用されている。この小学校は、130人の児童を寄宿舎に入れることができるので、子どもたちは毎日、4時間を費やして、苦しい山道を登下校する必要がなくなった。

 昆明の人たちもまた、友好の気持ちを抱いて藤沢市にやってきた。2003年、改修されて開園したサムウェルコッキング園(旧江ノ島植物園)の中に、中国式庭園の「春沢園」が新たに造られ、彩りを添えた。「春」は「春城」と呼ばれる昆明を表し、「沢」は藤沢を表している。

1982年に聶耳の誕生70周年を記念して発行された記念切手

 「春沢園」の中にある騁碧亭は、石材や木材をすべて雲南から持って来た。昆明から来た8人の工匠が3カ月がかりでこれを完成させた。

 騁碧亭の造型や亭内の壁画はどれも、典型的な雲南の特色を持っている。このため「春沢園」は「藤沢の中の昆明」と呼ばれ、人気の高いスポットの一つになっている。

 1995年に開かれた聶耳逝去60周年記念会で、当時の藤沢市の葉山市長は、感慨を込めてこう述べた。「今、日本の各都市は400以上の世界の各都市と姉妹都市とか友好都市とかを結んでおります。いろいろな形がありますけれど、藤沢市と昆明市のように人間で結ばれているのは非常に少ないのです」

 今年はちょうど、藤沢市と昆明市が姉妹都市となって25周年に当たる。藤沢市からは約300人が昆明を訪問する。その時には、昆明市は絵画や生け花、茶道などの行事を催し、藤沢昆明友誼館の中にある「中日交流資料室」も一般に公開することにしている。


 
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