高原=文 魯忠民=写真

北京長距離バスターミナルの一角。疲れきった旅客の多くは、夢を抱いてやってきた「北漂」たちだ

 急速に発展している中国に、都市化の波が押し寄せている。北京や上海、広州、深センなどの大都市には、農村や地方都市から膨大な数の人々がやって来た。

 彼らは新たなチャンスを求めている。夢を実現したい人、お金を稼ぎたい人、勉強したい人……。ただ漠然と人にくっ付いて来て、憧れの大都会に来てしまった人もいる。

 こういう人々は、「漂一族」とか「流動人口」「都市の新移民」とか呼ばれている。その中で、首都の北京に来た人々を「北漂」という。「北京さすらい族」とでも訳そうか。

 いったい彼らは何を考え、何を楽しみ、何を悩んで暮らしているのだろうか。すでに大都市の機能の一部を支え、将来はこの大都市の発展を担うかもしれない「北漂」の人々を紹介しよう。(文中敬称略)

職を転々とする若者たち

求人募集会に押し寄せた人の波

  北京で「漂(さすらう)」している若者たちにとって、仕事を換え、家を引っ越すことは、ほとんど日常茶飯事である。彼らはだいたい友人に、名刺ではなく自分の携帯電話の番号を渡す。だが、あとでそこに電話しても、彼がその会社にいるかどうかはわかったものではない。

 25歳の安徽省出身の張東輝は、2004年、北京の大学を卒業し、ガールフレンドの「簡」と北京に残った。「簡」は「ジェーン」のことで、近ごろ、英語の名前を名乗る若い娘がかなりいる。

 張東輝は最初、PR関係の会社に勤めたが、一年もしないで自ら会社を辞めた。その理由は、仕事がきつく、夜の11時、12時まで残業しなければならないことが多かったからだ。

 会社を辞めた後、彼はすぐに、全国でトップテンに入る大きなPR会社に入った。最初、彼は、こんな大企業に入社できて、メンツが立ったと感じた。しかし少しして、彼はまた鞍替えした。その原因は簡単なことだった。以前の小さな会社では、彼は良くも悪くも一つのプロジェクトのチームリーダーだったが、いまの大企業では、大学で管理学を学んだのに、瑣末な事務をさせられるだけ。それが彼の気持ちをアンバランスにさせたのだった。

求人募集会で新たな仕事を探す「ジェーン」

 この後、彼はまる5カ月間も家でぼんやりしていた。初めのうちは、多くの会社が彼を面接試験に呼んでくれたが、みんな辞退してしまった。どれも自分の理想に達しないと感じ、もう少し待って、ゆっくり仕事を選びたいと思ったのだ。

 しかし、時が経つうちに、彼もじっとしてはいられなくなった。「家にいたあの時が、非常に辛かった。毎日、家でパソコンやテレビのスイッチを入れたり切ったりしていた。そうしなければ部屋の中を行ったり来たりして悶え死にしそうだった。だから急いで、小さな会社と契約したんだ。実は早くからこの会社に行き、履歴書を渡していて、会社側もほしいと言っていたのに、私は行かなかった。今度また履歴書を出したら、また採用してくれたんだ」と彼は言った。

 そして思わず笑いがこみ上げてきたのか、ひとしきり笑った後、「もっとも不幸なことは、私はいま、また『分に安んずる』ことができなくなり始めたことなのです」と付け加えた。

一冊の評論集を書き上げたばかりの文学青年の蔡誠。彼は北京でこれを出版したいのだが、まだ実現していない。段ボールでベランダに仕事場を作り、創作にいそしんでいる(写真・高原)

 ガールフレンドの「ジェーン」も、何回も仕事を換えてきた。彼女は雲南省出身で、北京の戸籍を獲得するために、大学卒業後、北京の大きな国有企業に入り、内部で発行される刊行物の編集の仕事をした。仕事は忙しくなかったし、月給は4000元で、彼女と同期の卒業生の中では、収入は中の上だった。

 しかし一年後、彼女は、人からは羨ましいと思われているこの仕事を、ためらうことなく捨てた。それからさまざまな曲折をへて、最後は中央テレビ局のある娯楽番組の制作スタッフの一員になった。月給は2000元。しかもしょっちゅう、明け方まで残業をしなければならない。

 国有企業で仕事をしていた時、彼女は父親に電話して意見を聞いたことがある。「いまの仕事は、静かで暇。毎日、事務所でネットを見たり、お茶を飲んだり……。これが私には不安なの。危機感を感じているのよ」。こう言うと、父親の答えはこうだった。「危機感だって! ワシはずっとそうやって来たんじゃないか」

 父親は、雲南省の小さな町で、毎日、のんびりと暮らしている。あまり多くはないが、それでも安定した賃金をもらって、ひたすら定年になるのを待っている。そんな父親は当然のことながら、娘の気持ちが理解できない。

北京映画撮影所の前で、出演のチャンスを持つエキストラの俳優たち。彼らは毎朝六時過ぎに、少ないときでも数十人がやってくる。この光景は、北京特有のものだ

 北京で娘は、毎日、激烈な競争に直面し、さまざまな「成功物語」を見たり聞いたりするたびに、彼女の向上したいという「野心」が絶えずかき立てられるのだ。

 しかし、実は彼女は、安定した仕事をしたいと心から望んでいる。だがいつも、誘惑に耐え切れず、次の仕事ではさらに飛躍できるのではないかと考え、ついには転職してしまうのだ。
 
 最近、彼女は、故郷の友だちが昇格したとか昇給したとか、自分で企業を起こしたとかいうニュースをよく耳にするようになった。すると彼女は、嫌な気持ちになる。自分が北京でフラフラしているのはいったい何のためか、わからなくなる。
 
 しかし、不平はたくさんあるものの、彼女はまだ故郷に帰りたいとは思っていない。彼女は、劉邦と天下を争った項羽の言葉を引いて「北京で少しくらい功名を立てなければ『江東の父老に見える顔なし』です」と言った。

都市の近郊に生まれる芸術村

呉祖光と妻。呉祖光の仕事を支えるため、妻は天津の看護師の仕事を捨て、いっしょに北京にやってきた

   「北漂」という言葉が出現したとき、人々はそれを、北京に流離う芸術青年たちの代名詞としてよく使った。たとえば、映画撮影所の門前で、役の付くのを待っているエキストラの俳優や、円明園近くの民家を借りて創作にいそしむ画家、あるいはバーからバーへ流して歩くロックバンドグループのような……。

   しかしいまは、ホワイトカラーやエンジニアから普通の労働者までが、次々に「漂一族」に仲間入りした。だが、若い芸術家たちは、彼らとは明らかに「別種」の人たちである。

   天津出身の呉祖光は、有名な天津の泥人形の工房である「泥人張」で十数年、泥人形を作ってきた。後に彼は脱サラして商売を始め、さまざまな品物を売ったり、バーを開いたりして8年が経った。そして1994年、呉祖光は天津に自分の工房をつくって、もう一度、創作を始めた。

  その工房が閉鎖になった後、彼は妻子を連れて北京に来て、2年前、北京市昌平区にある芸術家たちの村の下苑村に定住した。

東北から北京に出てきて成功した画家の夫婦(右側の二人)

  彼の家に入ると、庭には雑草が生い茂り、室内のしつらえもごく簡素だ。ただ部屋の四隅に木彫の作品がたくさん並べられ、この家の主人の独特の味を醸し出している。

  実社会で数年、鍛えられたせいか、呉祖光は創作意欲が非常に湧いてきて、一心不乱に、休まず彫刻を続け、これまでに100点以上の作品を作った。

  当初彼は、それを売る気はまったくなかった。後に下苑村の先輩の一人が彼に、作品の一部を売って知名度を高めるよう勧めた。そこで彼は、展覧会を開いて木彫を売るようになった。一年で数点の作品を売り、生活が維持できればそれでいい。彼にとっては、安心して創作し、できるだけ自分の思想を表現できる場所があれば、それでよいのだ。

  陶芸家の鄭玉奎は、下苑村に定住したもう一人の芸術家である。北京に来る前、彼は山東省の陶磁器工場で仕事をしていた。彼も自分の好きな芸術のために、陶磁器工場のいろいろな福祉や待遇を捨て、家族を連れて北京に引っ越してきた。そして自分の陶芸工房を開いた。現在、彼の作品は、市場でなかなか売れ行きが良い。

自分の陶芸工房を建てた鄭玉奎。彼には多くの弟子がいたが、みな彼について山東省から北京に移ってきて、引き続き彼の下で陶芸を学んでいる

  北京に芸術家が集まって住む村ができ始めたのは、1980年代末からである。彼らは円明園近くの民家に住み、その数は92年ごろピークに達した。また、90年代には北京東郊の宋荘や昌平区の下苑村や上苑村にも芸術家村ができた。95年に円明園の芸術家村が解散させられた後は、多くの芸術家が宋荘や下苑村、上苑村に移ってきた。このほかにも、北京周辺には、全国各地から来た芸術青年が夢を追う基地があちこちにできた。

  北京には、彼らを育てる多くの芸術学校があり、ヒントを与える評論家がいて、さらに比較的しっかりした芸術の市場がある。多くの若い芸術家がいっしょに集まり、互いに切磋琢磨することができる。こうしたことすべてが、芸術家たちを続々と北京に向かわせる誘因になっている。

   普通の人たちのやや現実的な「都会への夢」に比べて、芸術家たちの捜し求める「夢」は、もっと幻想的で、理想化されたもののようだ。
 
   彼らは都会に対して一種、矛盾する心情を抱いている。それは、都会の豊富な情報と市場は必要ではあるが、都会の喧騒も嫌だ、という気持ちである。都市の近郊に、彼らは両者の均衡の取れた場所を探し当てたようである。

すべては子どものため

飲料水の配達に従事する敬従建

  今年30歳になる敬従建は、四川省広元の農村から来た。2001年に北京に来て仕事を始め、以来、ずっと飲料水の配達をしている。彼は毎日、14時間働く。三輪車をこいで、一桶10キロの飲料水を各家庭まで配達する。最も多いときは三輪車に15の桶を積み込む。そしてもっとも遠くの家まで運ぶときは、1時間以上かかる。

 一桶運ぶと1元の稼ぎになる。基本給はなく、現在は毎月平均1000元稼ぐ。妻も北京で働いている。2人は水の集配所に住み込んでいて、生活はどうにかやっていける。しかし、彼らは毎日、うどんやご飯に少しの野菜という食事をしていて、肉や魚などは月に2回しか食べない。金を残して、故郷の娘に送金するためだ。

 娘はいま5歳、来年、小学校に上がる。村には小学校はあるが、授業の質が良くないので、娘を家から約4キロも離れた鎮にある良い小学校に絶対に入れよう、と敬従建は考えている。彼は来年、親戚と金を出し合って、鎮に部屋を借り、子どもたちをいっしょに住まわせ、妻の母に面倒を見させようと計画している。

異郷にあって、条件は悪くとも、希望さえあれば、暮らしもまた楽しい

 しかし彼の娘は、算数ができない。2+3がいくらかもわからない。だから彼は焦っている。娘の話になると、敬従建は心配そうな目つきになる。故郷にいる娘は、実家の祖父母に面倒を見てもらっているが、老人は日常生活は見られても、勉強は見られない。
 
 しかも、子どもは父母と長い間、離れていると、感情が通い合わなくなる。敬従建の同郷の女性は、数年、故郷の家に帰らなかったが、帰ってみると、子どもが彼女を「おばさん」と呼ぶではないか。

 こんなことにならないよう、敬従建は娘を北京に呼んで、半年遊んだ。しかしその後は、名残を惜しんで娘を故郷に送り返すしかなかった。

四川省からの出稼ぎ者たちが多く住む北京東郊の高碑店。人々はここから自転車で、北京市を横切って西郊の石景山にある仕事場に行く。片道一時間半かかるという

 最近、メディアはよく、農村の「留守児童」問題を報道するが、敬従建は暇さえあればこうした報道を読みながら、自分の娘に想いを馳せる。実は、彼も故郷の家に帰ろうと考えたことがあった。

 家に帰って農作業をすれば、自由だし、落ち着く。しかし金は貯まらない。家には全部で7、8ムー(1ムーは、6.667アール)の農地があるが、すべて棚田で、収穫はいくらもない。都会へ出稼ぎに出たら、一年に7、8000元、仕送りできるので、娘が暮らすには問題がない。
 
 最近、北京市は、小中学校が出稼ぎ労働者の子女に対して徴収してきた「枠外の料金」を撤廃した。親戚の子どもはすでに、近くの小学校で無料で勉強している。敬従建も娘を北京に迎えたいと思っている。

初めて北京にやってきた出稼ぎ農民

 だが、彼にはまだ、すこし心配がある。もし自分が仕事を換え、引っ越しすれば、娘が巻き添えになって、絶えず転校することになる。どうしたらよいのだろう。

 敬従建自身、成績は非常に良かったのに、中学2年で中退した。その理由は第一に、家に金がなかったからだ。第二に、いくら成績がよくとも最後には農作業するだけで、希望がなかったからだ。それなら出稼ぎに行ったほうがよい。しかし、本当に出稼ぎに行ってみると、自分には知識がなく、学歴もなく、ただ体力を使って生きてゆくほかできないことがわかった。だから彼はずっと「必ず娘を勉強させなければならない」と言い続けてきたのだ。
 
 これから先について彼は、少し技術を学んで、将来はタクシーを運転したいと考えている。彼はどんなに苦しくとも、自分と娘のよりよい未来のために、都会で働き続けるつもりだ。

アイデンティティーを求める人々

「北漂在線」の創始者である范明星(本人提供)

 急速な都市化は、多くの問題をもたらした。小津安二郎の映画のシーンのような現実が、中国で再現され始めている。若い人たちは故郷を離れ、親類縁者の庇護を離れて都会で懸命に仕事をする。しかし、都会の疎遠で複雑な人間関係に順応できず、彼らはいささか困惑している。
 
 范明星は北京に出てきたとき、高校卒業の学歴しかなかった。もともと彼は出身地の師範学校に合格しており、そこを卒業すれば安穏な小学校の先生になることができた。しかし彼は毅然として、北京に出てきて、もっと華やかな、刺激に満ちた生活を探そうと決断した。

  しかし彼は、最初に遭遇した「刺激」が、こんなに辛く悲しいものだとは思ってもいなかった。北京に来てまもなく、彼は友だちと街を歩いていると、突然、警察に呼びとめられた。警官はぞんざいな口調で「暫住証(暫定居住証)を持っているか」と言った。

IT産業には、多くの「北漂」の若者が集まる(写真・楊振生)

 この言葉に、彼は非常に怒った。彼は暫住証を取り出すと、警官に「俺は持ってるよ。俺は暫住証をもっている!」と怒鳴り返した。

 しかしそのとき、彼は、自分の身につけている背広やネクタイ、自分の話す標準語のことを考えた。そして突然、これらすべてが使い物にならないことを感じた。彼は北京人ではなく、無数の「漂一族」のちっぽけな一員に過ぎないことを感じたのである。

 いまから思えば、当時の范明星の反応はいくらか過激であったようだ。しかしその怒りは本物だった。彼は他人からの蔑視には非常に敏感だった。

 この都会には、彼がどこかに属しているという帰属意識がなかった。彼を慰めてくれる故郷は、ただ記憶の中にしか存在しなかった。

河北省唐山市から来た梁満。高校卒業後、北京の中関村にやって来て、友人とコンピューターの商売を始めて5年になる

 2002年、范明星は自腹を切って一台のコンピューター・サーバーを借りた。ウェブサイトの仕事をしたとき学んだインターネットの知識によって、彼は「北漂在線」というウェブサイトを立ち上げた。そしてこの数年、「北漂在線」を中心に、多くの北京の「漂一族」が集まってきた。

 彼らはネット上に、自分がどうやって北京に「漂」してきたかを書き、貸間や就職情報を交換し、また食事会やバドミントン大会、孤児を見舞うなどの公益活動も組織した。彼らはこの新たな集団の中に、再び帰属意識を探し当てようとしている。

Uターンして起業する若者も

「北漂」をテーマにした映画『泥鰍也是魚』(日本語題『ドジョウも魚である』)のポスター。この映画は第18回東京国際映画祭で、最優秀芸術貢献賞を獲得した

 「故郷の閉塞した環境から飛び出し、大都会で一旗上げて、自分の価値を証明したい」――村から町から中小都市から、北京にやってきた大多数の若者たちは、みなこんな考えを持っている。だが、吉林省長春から来た馮占陽は違っていた。

 馮占陽は吉林建築工程学院の卒業。建築装飾を学んだ。彼は、卒業後の目標はまったくなかった。そして北京に親戚があるという同級生といっしょに、北京にやってきた。卒業式後、7日目のことだった。
 
 北京に着いた後、彼らは同級生の親戚の助けで、地下の一室を借りた。携帯電話がよくかからないので、いつもベッドの上に立ち上がって家に電話をかけた。

 初めて北京に来た「漂一族」の大多数がそうであるように、仕事を探すのが、馮占陽の生活の中で一番大事なことだった。当時、彼は毎日、起床してから最初にすることは、新聞を買いに行き、求人情報を見ることだった。そして、求人を出している会社を一軒、一軒回り、面接試験を受けた。

 東へ行ったかと思うと、今度は西へ。だが、みな無駄骨だった。そして彼は、「北京は広すぎる」と思った。こんなことを半月繰り返したすえ、彼はついに仕事にありついた。

 生活が安定したあと、彼は自分の最初の決断を、もう一度思い直し始めた。北京は、故郷の長春に比べ、部屋代も物価もずっと高い。北京の蜂の巣のようなビルの中の二部屋を買う金で、長春なら別荘を買うことができる。もし北京で根を下ろしたら、テレビの広告のように「毎日、家と車を背負って苦しい仕事をする」ことになる。「長春にいれば快適なのに、どうして北京でこんな苦役につかなくてはならないんだ」と彼は言った。

長春で会社を創業した馮占陽(本人提供)

 しばらくして馮占陽は、北京のインテリア・デザイン業は非常に発達していて、多くの中小都市にはない、新たな素材や創意があることを発見した。しかも、北京には大企業が多く、その中から、多くの専門の生産過程や管理面の経験を学ぶことができる。そこで彼は、多くの中小企業が出してきた優遇条件を断り、仕事を換えるたびに、大企業ばかりで働いた。たとえ基本給が300元であっても彼は喜んでそれを受けた。

 そのときから彼は、自分で創業しようと考え始めた。ただそれは北京でではなく、長春でであった。2005年8月、馮占陽は長春で、自分の建築装飾会社を創業した。彼はこう言っている。「自分が学んだもっとも重要なことは、大都市で学び、中小都市でそれを活かすということだ。中小都市には大きな市場があるからだ。北京のような大都市が、どの人にも適しているとは限らない」



 
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