【あの人 あの頃 あの話】(21)
北京放送元副編集長 李順然

食べ物はなかったが心があった

 50歳以上の大陸に住む中国人にとって、「困難時期」(困難な時期)という言葉は、ある特定の具体的な歴史的時期を指す代名詞となっている。この四文字を目にすると、すぐに1959年から1961年までの、中国経済が自然災害や政策上の誤りによってたいへんな困難に見舞われた3年のことが、頭に浮かぶのだ。

 あの3年、食糧の減産などで、農村部の一部の地方では、餓死者まで出た。北京でも、食糧はじめ油、肉など、すべて配給制になり、栄養失調で足がむくむ人が多かった。まだ若かった私でさえ、3階のオフィスまでの階段を登るのがきつかった。「必要かつ最小限の行動を心がけて消耗を防げ」という通達がでたこともあったが、みな骨惜しみすることなく働いた。

天安門の上から百万人の北京市民の大集会の模様を実況中継する筆者(手前)。食糧難の時代で、みな頬がこけている

 あの時期の思い出は、食べ物に繋がる。1960年だったと思う。お正月の特配として、元旦の昼食にタマゴがでた。当時のタマゴは貴重品だった。咸鴨蛋(塩漬けのアヒルのタマゴ)で、4人で一個。4分の一つに切られて並べられたユデタマゴを前にして、とっさにどれが大きいか目が走り、我ながらあさましいなと恥じ入ったのを覚えている。

 タマゴといえば、こんなこともあった。1960年の5月9日、北京の天安門広場で、日本人民の反米愛国闘争に声援をおくる100万人の北京市民の大集会が催された。北京放送の日本語のアナウンサーをしていた私は、天安門の楼閣の上から、この集会の模様を日本に向けて実況中継したのだが、3時間も楼閣の上に立って実況中継するのは、体重が48キロしかなかった身体がもつかどうか心配だった。

 そうしたある日、「がんばっていい放送をしてね」と同僚の王恵美さんから、タマゴのスープが届けられた。4分の一ではなく、タマゴ2個ぐらいを使った中身の濃いスープで、同僚の暖かい心に励まされた。王さんは3人の育ち盛りの子どもの母親。タマゴは貴重品のなかの貴重品だったことだろう。

 もう一つ、タマゴの話。「困難時期」のとき、家内は遠く南の広東省の農村に「思想改造」に行っていたので、私は部屋を結婚する同僚に貸して、独身宿舎に住んでいた。あのころ、独身宿舎ではときどき寝る前に「精神会餐」(精神的会食)が開かれた。以前食べた美味しいものを、おもしろおかしく同室の仲間に紹介して、空いたお腹を慰めてから眠りに入るのである。

 私はタマゴを4個使った特大オムレツを紹介して、みんなのため息を誘った。この「精神会餐」は、のちの「文化大革命」で「ブルジョア享楽思想」の烙印を押され、きびしく批判された。

 「衣食足りて礼節を知る」というが、「困難時期」の中国は、その例外だったのかも知れない。衣食には大いに事欠いたが、心は豊かだった。助けあい、励ましあい、分かちあい……。礼節が重んじられたのである。

 苦しかったが、その意味では本当に懐かしい時期であった。いまでも、当時の友人と会うと、あのころの思い出話に花が咲き、心と心の結びつきの快感を覚えるのである。


 
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