劉世昭=文・写真


普寧寺にある、木彫の千手千眼観音菩薩像

  避暑山荘の東北にある山の麓には、12の皇室の寺院がある。その中の8つは、清朝政府が少数民族を支配するために制定した法規『欽定理藩院則列』により清朝政府が管理していたため、「外八廟」と呼ばれている。ここは、清朝の皇帝が承徳に滞在したときに政治を行った場所で、それぞれの寺院の建造は、当時の政治と密接に関係している。


二つの様式の寺院

普寧寺の天王殿

 康煕52年(1713年)、蒙古の王公たちは、康煕帝の60歳の誕生日を祝うため、承徳の武烈河の東岸に、同じ造りのチベット仏教寺院、溥仁寺と溥善寺を建立した。この寺院の建設は、康煕帝がチベット仏教を利用して、蒙古族やチベット族などの少数民族を手の内におくという考えとも一致し、地方の首領が、承徳で皇帝に謁見する場所としても便利だった。康煕帝は自ら二つの寺に、「溥仁」と「溥善」の扁額を書き記した。これは、皇帝が仁政、善政で天下を治めることを意味している。

 普寧寺は、乾隆帝が承徳に建立した最初の寺院で、別名、大仏寺ともいわれている。乾隆20年(1755年)乾隆帝は、新疆、蒙古の部族の反乱を鎮圧した。その勝利を祝い、そして承徳に謁見に来る蒙古四部族の上層部の人と会うために、彼らの宗教習俗に沿ってこの寺を建造した。

 「普寧」は、天下の安寧を意味する。寺院は、漢民族様式とチベット様式で建てられ、山門、碑、亭、鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄宝殿は漢民族様式で、後の建物は、チベットにある三摩耶廟に模して作られている。

普寧寺の大雄宝殿で経を読むラマ僧

 普寧寺で有名なのが大乗之閣だ。高さ9メートルの須彌壇の上に建っており、その両側には、18の高さが異なる仏教建築が配置され、完全な「曼陀羅」が構成されている。高さ37.4メートルの大乗之閣は、真正面から見ると6層にひさしが重なり、天地と四方を表す「六合」の意味がある。後ろからは4層に見え、4種の曼陀羅を表し、両側から見える5層のひさしは、地、水、火、風、空を象徴している。

 大乗之閣の中には、金漆の千手千眼観音菩薩が安置されている。この菩薩像は、高さ22.28メートルで、マツ、コノテガシワ、ニレ、シナノキ、スギの5つの木、120立方メートル、110トンの木材が使われ、世界最大の木彫の仏像でもある。

 菩薩像は胸の前で合掌し、背中には40の手が取り囲んでいる。その手のひらには目がついていて、それぞれ法器を持っている。仏経の解釈では、手につけられた目は25の因果応報を表し、40の手は千の因果応報を表している。そのためこの仏像は、千手千眼と呼ばれ、多くの知恵と限りない神通力を象徴し、衆生を済度することができるといわれている。

北京天壇の祈年殿に模して建てられた普楽寺の旭光閣
旭光閣の周りには、8つの瑠璃のラマ塔がある。白、黄、青、紫、黒に別れ、5色の土を象徴している
乾隆帝が書き記した普楽寺の「御製普楽寺碑記」
普寧寺の大乗之閣。中には千手千眼観音菩薩像が安置されている

華麗な天井装飾

 普楽寺は、避暑山荘の東側を流れる武烈河の対岸に建てられ、その中心の建物が、乾隆31年(1766年)に建造された旭光閣だ。円形の形をした旭光閣は、瑠璃瓦の屋根が2つに重なり、先がとがっている。北京の天壇の祈年殿を模して建てられ、「円亭子」とも呼ばれている。

装飾が施された普楽寺旭光閣の天井

 当時、北西辺境のカザフ、ウイグル、キルギスなどの少数民族と清政府との関係は、日増しに緊密になっていた。寺は、謁見に来る王公や貴族たちの礼拝の場となり、辺境地区の各民族を団結させ、清王朝の支配を強める場所になった。「普楽」という名前は、范仲淹の「岳陽楼記」(1046年)の詩句、「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽(天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ)」からつけられている。

 旭光閣の中にある円形の須彌壇の上には、別名「歓喜仏」と呼ばれる、大日如来の法身である勝楽金剛双身銅像が安置されている。精巧な彫刻が施された天井は、外八廟の中では一番美しく、中国でもとても珍しい。木造の天井は九層に分かれ、各層の斗きょうには竜や鳳、天井の中心には、珠をくわえてとぐろを巻いた竜が彫られている。その技法は、浅い浮き彫り、深い浮き彫り、透かし彫りで、天井の各層を華やかで立体的にしている。

小ポタラと呼ばれる廟

普陀宗乗之廟の全景

 避暑山荘の北部の獅子嶺には、乾隆32〜36年(1767〜1771年)に、チベットのポタラ宮を模して造られた普陀宗乗之廟がある。この建物は、山の地形に沿って建てられ、外八廟の建設では最も長い時間が費やされた。敷地面積は22万平方メートル、外八廟の中では一番大きく雄壮な廟である。

 乾隆35年(1770年)は、乾隆帝が60歳を迎え、翌年は乾隆帝の母親が80歳を数える年だった。その時には、多くの辺境の少数民族の王公や貴族が誕生祝いに訪れる。乾隆帝は清王朝の威厳を現し、各少数民族の人たちの心を籠絡するため、そして蒙古、チベットの辺疆地区にはチベット仏教の信者が多いことを考え、ポタラ宮を模してこの廟を建てた。

普陀宗乗之廟の五塔門。黒、白、黄、緑、赤の塔は、密教の不動金剛仏、大日如来仏、宝源仏、不空成就仏、無量光仏の5仏を表している

 「普陀」は、観音菩薩が霊験を現すところ、「宗乗」は観音菩薩が伝える大乗仏法のことで、乾隆帝はここに観音菩薩の修行の場を建立した。普陀宗乗之廟は、前、中、後の三つの部分に分かれ、楼、台、殿、閣、塔、亭など200あまりの建築物が建てられている。

 山頂の大紅台は、廟の主要建築で、高さ43メートル、敷地面積は一万平方メートル以上ある。大紅台の南側の中心の壁には、6つの瑠璃製の仏龕が上下にはめ込まれ、その中には、乾隆帝の60歳という意味を含む、六体の無量寿仏が安置されている。上部の東、南、西の三方面の女墻には、99の瑠璃の仏龕が散りばめられ、「久久(永遠という意味で、九と久は発音が同じ)」の意を取って、乾隆帝の母の誕生祝いとした。

普陀宗乗之廟の大紅台の南側の壁の中央には、無量寿仏の仏龕がはめ込まれている

 大紅台の中は、チベット式建築特有の、建物が集まった構造で、その中央にある万法帰一殿の屋根は、鍍金された魚の鱗のような銅瓦に覆われている。記載によると、この屋根を葺くために、11万7959斤(約58トン)の銅、1万4000両(約880キロ)の黄金が使われた。

 普陀宗乗之廟が出来上がったちょうどそのころ、帝政ロシアの統治者は、ボルガ川流域で遊牧していた蒙古族のトルフト部族を奴隷のように酷使し、それに耐えられなくなったトルフト部族は、幾重もの障害を乗り越えて祖国へ帰った。乾隆帝は、わざわざ万法帰一殿で祝典と大法会を行い、トルフト部族の首領を盛大にもてなした。その後この場所は、重要な政治と宗教活動の場となり、毎年旧暦の7月11日には、ラマ僧の進級試験や、6世パンチェンラマの読経説法が行われた。

普陀宗乗之廟の大紅台

普陀宗乗之廟の万法帰一殿の、鍍金された鋼瓦の屋根

普陀宗乗之廟の瑠璃碑坊と呼ばれる鳥居形の門

溥仁寺

仏が住む吉祥の地

須彌福寿之廟の山門

 普陀宗乗之廟の東側に位置する須彌福寿之廟は、乾隆45年(1780年)に建てられ、この年はちょうど乾隆帝の70歳の誕生日に当たった。各地の王公や貴族、チベット政教首領のパンチェン6世が、承徳へ誕生祝いに訪れることを重視した乾隆帝は、チベットのシガツェのタシルンポ寺を模して、承徳に須彌福寿之廟を建造し、パンチェンラマの承徳での行宮にした。

須彌福寿之廟の大紅台にあるチベット式の盲窓。これは通風のために、窓の上部しか開けることができず、ラマ僧たちは外の景色を見ることなく、一心不乱に修行に励むように作られている

 「須彌福寿」はチベット語の「タシルンポ」の訳で、仏が住む吉祥の地を意味する。須彌福寿之廟がある大紅台の中央には、28.8メートルの妙高荘厳殿があり、その中にはチベット仏教ゲルー派の創始者ツォンカパと、釈迦の塑像が安置されている。ここは6世パンチェンラマが乾隆帝のために説法した場所だった。

 妙高荘厳殿の屋根は、鍍金された魚の鱗模様の銅瓦が使われ、尾根には8つの金の竜が飾られている。その竜は、今にも空中に舞い上がるような姿で、中国の建築史の中ではまれに見る装飾である。

殊像寺の会乗殿(左)と宝相閣(右)
乾隆25年に建てられた普佑寺
須彌福寿之廟の大紅台にある、妙高荘厳殿の鍍金が施された鋼瓦
乾隆45年に建立した広縁寺


 
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